新切鰺(しんぎれあじ)の京都巷談。新切鰺は都市漂泊。舌足らずの言いっぱなしブログです。京都暮らしの横断面図は不都合事情。ブログを書く時は鯵庵と名乗っている。31.4.30
(写真註:ツバキ、落ちてなお傷みやすい花である)
田舎にある先祖の墓を何とか自分の近くに持って来たい
ところが墓を移転(※改葬)するということは結構大変なことである
親がいて正月や盆あるいは彼岸に帰省するところがあればありがたい
しかし、自分が田舎を捨てて親もいないとなれば田舎へ帰るのは墓参りと言えど辛いことである
先祖の墓と自宅との距離が問題になる
それゆえか無縁仏が増えている、墓参りしなくとも墓の所有者がはっきりしていれば無縁仏ではない
墓地の運営者が正式に無縁仏とするには改葬の公告をしなければならない
それも手間のかかることである
国の調査では出生地に住み続けてるいる人の割合は2割以下に減少している
もうこれ以上に下がらないかもしれないが、その大きな原因が都市移住と人口減少である
その残りの7割・8割の人の中で新しい墓を持つことがここ数十年続いてきた
墓地を分譲(土地は所有しない)する形の霊園が今までの主流であった
今でも条件のいい霊園墓地の競争率は高いけど、一方でそこでも無縁仏が増えている
評論家は都市移住の問題より今は未婚化の方が影響しているという
人間、子が出来て孫が出来てはじめて先祖のことに思いが至る訳である
でも残念ながらその子に墓参りする姿を見せていない
生きてるうちに自分の墓を作ったって同じである、そんな墓に参るのを子供に見せても感動はないだろう
人間の終わりは骨である
石の墓を持てる限りは生きた記念碑が欲しいというのが信仰になっている
田舎へ行って菩提寺にええかっこして墓地の改葬をしたい、と言ったら何百万も要求されることもある
何百年の清算と縁切り料である
そうでないと墓地管理者としての改葬の承認状を発行してくれない
改葬は法律に基づく手続きであるからだ
それならどうすればいいか?新しく自分の墓を作るのが手だろう
ただしそれは永久に改葬の必要のないところに・・
そんなことも書いていきたい
先祖の墓も守しないで自分の墓を持つのは先祖や親に大不孝だと思う人はやめたがいい、納得ができなければいくら作っても記念碑にならない
だから今あなたの心の隙間を埋めるように多くの自治体やお寺が合同葬を進めている
都市で子供のない人や未婚の人たちをターゲットにした営業戦略に変更をしている
自分の墓を守してくれるのは自分の子供達だという一番大きな信念が崩れつつある
そのことを知って選ぶべきである
守をしてもらうのでなく孫にも会いに来てもらえる墓を選ぶべきであると思うのだが・・
これからは結婚しない人にも優しい墓でないと流行らないと思う
いずれ魂は気化して残るのは土と水だ、都会の人は都会が墓場だ
家族というテーマで何篇かを書き始める
※日付はブログとして書いた日である、このページの記事とは関係ない(28.9.18)
(写真註:ヒガンバナ/彼岸とは向こう岸のこと、泳げないと行けないところ)
波平さんの自慢出来ない息子カツオのこと
友達の多いことはいいとして、成績が悪いことを人に言われた時、波平さん「成績が悪いのはかつおはまだ勉強する気になってないだけ」と言い返す
名文句でそれを聞いたかつおが「お父さん・・・(涙)」と言う
だが残念ながら、そのことで心を入れ替えるわけではない
子どもが成長しないことは親にとって一番辛いこと
勉強が出来る″より先に勉強する気を持ってほしい″という方が親の本来の心情に近いのではないか
勉強する気にいつなるかである
勉強は話を聞くことに始まる
多くの子どもたちは仕方なしに学ぶ
だが、学ぶことは苦しい、それはスポーツだって音楽だって同じだ
勉強は苦しいが、楽しいことでもあることに気付かせなければならない、それが学ぶということ、それが成長だ
幼少期から少年期に、思春期を越えて青年期、成人しても勉強する気を持たない人を沢山知っている
そんな人はこれから恐らく老人になっても勉強する気が起こらないだろう
波平さんは勉強してきていい大学を出て東京まで出てこれた人である
だからこそ気づきさえすればいいと言えるのかもしれないが、現実ではあのカツオが最後まで勉強しない大人になる可能性の方が高い
遊びのほうが楽しいに決まっている
勉強する気にならないうちに同じような勉強しない友達が多いということを想像して見ると、ぞっとすることである
あくまでも「子どもはいつまでも子どものままで」と思いたいマンガである
日本を支えてくれるはずだったスポンサー東芝らしい番組でもある
(28.9.22)
(写真註:コスモスの色、コスモスは宇宙を表す)
シイタケの春子を送ってくれる友人どんこ氏と京都で飲んだ
「移住″田舎暮らしは持て余す時間との闘い、悠々自適(ゆうゆうじてき)とか晴耕雨読(せいこううどく)などというけれど、悠々自適は本当に退屈だ。読″などすぐに飽きた。まだ畑は1年のサイクルであるので3年はもつ。自分が育った田舎に帰って、なお田舎暮らしに慣れるのに年数がかかるというのは予想外のことだった。」
というのが氏の本音
晴耕雨読の耕″だって、夏野菜も梅雨の雨で腐ってしまうこともある
虫を追いながら作った野菜もキュウリもナスビもトマトもピーマンも上手く行けば困るほど出来る
折角の農薬節約の栽培、お裾分けに宅急便を活用しても、一時は毎日野菜ばかりの生活になってしまう
慣れるのに時間がかかる割に、飽きるのが早い″というのが田舎暮らしだと・・少々ぼやいている
ゴルフとか釣りとか散歩とか一杯あるのではと言えばすかさず答えが帰ってきた
都会に生活していて都会の人の道楽になっても田舎では似合わないと言う
サラリーマン生活からの精神的落差を感じなくなるには数年かかるのではないか
田舎にないのは飲み屋、都会でも田舎でも同じなのがテレビだ
晴れても雨でも朝からニュースショウ見ていれば隠遁生活にもならない
テレビこそ晴耕雨読だとすれば都会も田舎も同じことだという結論に達した訳である
隠棲するのが理想だと言っていたのに・・喋る相手がいないのが一番辛いという
小生もこれからはジジィのメール交換が流行ると思う
ジジィだってパソコンもメールも出来る時代だ
遅ればせながら私のスマートホンにもLINEが入った
きちっとやれば面倒やろうけど、ごそごそやっていたら・・
件のどんこ氏が突然゛なんや?”言うて送ってきた
「どないなってんねん」と送り返したら、「"友達"を"自動"にしてあるからや」と返信してくれた
それはそれでええけど、アドレス帳筒抜けやなー
しかも全国津々浦々だ
なんや先にやってたのかいな、そやね、孫とのメールはこれやないと??という話
大人がLINEを使うのは気はずかしかったけど気楽やね
この際、LINEもジジ・ババ専用版を開発したらどうですか
若返った分・・年寄同士がつながったらオレオレ詐欺の防止にも役立つかも??
と、思った次第である
(28.10.14)
(写真註:松山市出身だから松山容子。琴姫とは彼女のこと。オロナイン軟膏の大塚製薬とは縁が深い・?)
日本のカレーライスが美味しくなくなった
この頃は全国共通で〇〇屋が幅を利かしている
しゃぶしゃぶカレーで、まずい・・うすい・・味がない、そんな言葉が次々に浮かんでくる
冷凍のカツやメンチを揚げてるだけである
数十年前店を起こした経営者も何でこんなに大きくなったのか分からないと言う<
食い物屋とはそんなもんだから、それはいいのだが、おかげで美味しいところが激減した
喫茶店のカレーライスも美味しかった(とこがある)
そば屋のカレーライスも美味しかった(とこがある)
大衆食堂のカレーライスも美味しかった(ところがある)
牛肉屋のカレーライスもあった
カツが美味しい店のカツカレーは美味しかった
昔のデパートの食堂も美味しかった、ハヤシも美味しいものだ
友人はらっきょを食いたくなったらカレーライスを食いたくなるという
しかし、トッピングばかりでらっきょも真っ赤な福神漬けもない
トッピングにしゃぶカレーをかけたらドンブリだ
そうか、だから牛丼屋でカレーライスがあるのか良く分かったと一人うなづく
例えば洋食屋と言ってる店の洋食と言うのは実は和食なのである
ご飯に合うということが和食の条件だ
だからカレーライスは和食であってほしい、ご飯を美味しく食うための料理である
やはりカレーライスは家で食うものだ
美味しいカレーライスが作れたら、それだけで料理の腕は自慢できる
ジャガイモがそのまま入っていても、人参が大きくてもいいではないか
肉だって所詮ダシである、ルーを入れる前の緊張感は愛情深い人の特技である
小生らの小学校家庭科実習では女子と一緒にカレーライスを作った
何故かグリーンピースを買うのが小生の役だった
何でエンドウ豆と言わないのだろうか
買い物係の小生、グリーンピースがどこに売ってるのか分からなかった
今でも子供にはグリーンピースを入れてやるみたいだ
子供と一緒に美味しいカレーライスが家で食べられるのが家族だと思ってください
そうですよ、孫のお母さん
(28.10.19)
(写真註:コガネムシ/コガネとは小金ではなく黄金のこと)
今日は人生相談記事からです
”夫が「趣味」に走って家族をほって既に別に暮らしている”
自分の稼ぎで末っ子を学校に行かせる50代会社員女性
面白いことに“夫の趣味”が何かを質問者は言っていない
趣味の如何にかかわらず、この場合は遺棄(いき)である
妻や子が妻や子だけで生きて行けない以上保護の責任はある
裁判で費用の請求は可能であるが、ともかく離婚もすすめている
しかしながら、果たして上手く別れられるのだろうか
小生にも彼の趣味が何であるのかわからない、その点読者としては不満である
もう一つの不満、おそらく相談者の女性は上手く別れられないだろう
彼女はこの相談で、そのことに気付くだろうけどおそらく的確な手段まで思い至らないだろう
相手の彼も別れることの意味が理解できないだろう
もともと夫婦生活と言ってもそれでもないのだろう
そうでなければ妻や子への復讐かもしれない
夫であり父親である、家族の柱であるべきことと・・
そうであることとそうでないことの区別が出来ていない
暮らすということことそのものが分からないままの夫婦のようだ
そういう人が、まともな趣味を持つことは考えられない
仕事も辞めて毎月十何万も趣味に金を使うというその趣味とはなんなのだろうか
ますます気になる??
それさえ教えてくれたら小生にもアドバイスできるかもしれない?
私の教科書・・??
《結婚生活の倦怠期、すなわち性生活の非刺戟性と単調化が破綻の誘因となりうる。特にお互いの性格の相違はこの時期までに調整しておかなければ、急速にそれが互いに耐えきれぬ欠点としてクローズ・アップされるのである・・・》と、離婚の原因として一番に述べられている
男女間での”刺戟性”と言うのは単純な”刺激性”とは少し違う
単調化は分かりやすい
性格の相違というのは分かりにくい、、それが離婚の理由を複雑にしている
よく似た性格だと離婚にならない場合が多い
なによりも別れるということはめんどくさいことである
趣味の違い、この頃は価値観の違いなど言い替えたりする
結婚は理由は要らないが、別れるには理由がいるからだ
心配しなくとも離婚した方がいい夫婦は世に多い
今日はいい夫婦の日だって
(28.11.22)
(写真註:ドングリの夢はドングリ、ドングリも押し花にしてと孫が言う)
知っているようでいるようで知らないのがドングリ
ドングリは乾果(かんか)の一種、果皮が固いブナ科の果実全体をさしている
子供達がはかまと言っているのは殻斗(かくと)である
それがブナ科の特長でもある
ドングリの森にはブナやナラ類の明るい森もあるし、シイやカシ類のように暗い森もある
スダジイというのがある
名は余り聞かないという人がいる、常緑である、シイタケのほだ木にも使われる
実は炒って食べられる
イタジイ、ナガジイともいう、一般のシイの木のことである
ジイ(爺)というのは懐かしみを感じるが、スダジイという名の語源を小生は知らない
京都のシイ類の群落は円山公園・清水寺裏、松尾大社裏、法然院・銀閣寺町などが知られている
神域で開発の手が入らなかった所などが分かる
この群落は守られなければならない
もう一つ平地は鎮守の森である
クスノキやシイ類の大木は神社の森に多い
鎮守の森は神のいる世界を区別するための森だ
そんな偶然で京都の森はギリギリ守られている
東山七条の女坂(おんなざか)を上がっていくと新日吉神宮(いまひえじんぐう)にあたる
三十三間堂や今熊野(いまぐまの)神社は後白河院政の法住寺殿(ほうじゅうじでん)の一連の建物である
後白河院が日吉神社(ひえじんじゃ)を祀って新日吉神社とした、今は後白河院も祀る
本殿裏に樹齢500〜800年というスダジイの大木がある
新日吉神宮がここに来る前からあったと言われている
京女(きょうじょ)の京都女学院が随分大きくなって校舎が迫っている
明治になって京都女学院も来たが神社も来たから守られたと思う
小生ら夫婦はこのスダジイがかぶる本殿で数十年前結婚の祝詞(のりと)をあげてもらった
おかげで(?)まだ続いている
(28.12.12)
(写真註:背中にサクラを背負う男がいなくなった)
アカンもんはアカン″のやけど、だからと言ってほとんどの人は、家で言えないようなことを会社でも社会でも言えるはずがないのではないだろうか
会社の延長が家ではなく家の延長が会社になっているのではないか
家でも会社でも戦わない論理は元来平和主義の女性原理から来たものである
日本の女性は昔からそんなこと折込済みだったのだ
男どもは甘えて威張ってればいいのに、急に理解のあるようなことを言う
そんな男の相手をすることは日本女性にとって物足らないことなのに、気の利いた女性は決して言わない
家でもう一人の母親みたいな男の背中ばかり見せられた子供たちこそ不幸であり、かくして男性原理は廃れ、男も女も女性原理的平和主義と平等主義で生きていくことになる
それが不幸だと言っているのではない
ただ、それでは新しいいい女性が育たないのだ
(29.4.4)
(写真註:セツブンソウが節分に咲くことはまずない)
男らしさ″というものがあれば女らしさ″というものもある
いずれにしろらしさ″という言葉は、定義は曖昧だ
倫理・哲学の一つだと思うが・・あまり学問的ではない
どちらかというとやはりホルモンの影響の方が強い
睾丸(こうがん)で生成・分泌されるテストステロンというものが男子の男性としての機能や身体的男らしさ″を作っている
とすれば睾丸が男らしさを作っているという世間の常識を肯定することになる
生理学的に言うとこのテストステロンというホルモンは「闘争心」に一番かかわりが強いとも言われる
そんなことから、暴力ホルモン″とか浮気ホルモン″とか言われる所以がある
もちろんこの場合の暴力とはDVやストーカーのそれとは逆で強いものと闘ったり家族を守るために闘ったりするその闘争心の表れを言う
弱いもんいじめは男らしさの反対側である
男性のホルモンの作用を見誤ると女性にとっても具合の悪いことにもなる
強いから優しくなれるのが男らしさ″である
女性の都合で男らしさ″を求められるのも困るが、母親のようにそんな稚気を大事にしてやれるのが女姓である
ひょっとしたら"強いから優しくなれる"・・のが女性
それじゃ同じになってしまう
優しくなれるということはそれほど遠いことなのか
聖母たちのララバイ″という歌もあった
女性も半分は男から生まれたものである
写真・・らしさだけで生きているカエル
(29.4.29)
(写真註:テッポウユリは聖母マリアのユリ)
あの世などあり得ないと言うことは簡単である
その通りかもしれないが、それでは皆、救われない
あの世もあってほしいと思う人も多いだろう
あの世を見て来た人が少ないのだから仕方がないが・・
日常そんなことばかり考えているわけにはいかない
今、生きているのを今生という
死後生まれ変わるのを後生という
人が死んで次の生を受けるまでの49日間を中陰という
その間、ことである
安心してはいけない・・生前の善悪はまだ定まっていない
善悪のまだ定まってない者は7日ごとに転生し、7度の49日を経て必ず他所に生まれる説かれてる
悪趣に行く者も、仏の導きにより善所に生まれることを念じて法事を務めるのである
古くから一般庶民にも広がった死後感である
ひょっとすればその間が地獄で閻魔大王に生前の罪を裁かれている時期かもしれない
地獄とは、死者の国であり、六道輪廻(ろくどうりんね)の国でもある
しかし、やがて、ともかくも地獄の「おつとめ」は終わる
人を裁くという閻魔大王は日に三度も灼熱の溶銅を飲んで悶絶するという
地獄で最も苦しんでいるのが実は閻魔大王である
閻魔の裁きは人の悪業の消滅を助けるもので
だからこそ、閻魔は裁きを終えると姿を変えて地蔵菩薩として人々を慰める・・
という
悪行をなした人がそのまま極楽へ行けるとすればそれはやはり不都合だろう
それでも、いずれ仏になれるのならそれは救いになる
悪行は正しく裁くものがあって初めて悪業となる
善をなしてきたとばかり思っていると意外なところで閻魔に暴かれるかもしれない
そういう人の方が多いからこその閻魔様である
だから、仏の導きにより善所に生まれることを念じて法事を務めるのである
してやれることはそれしかない
(29.6.3)
(写真註:スカシユリは上向きのユリ、雨がたまらないように隙間がある、北のユリ)
墓守の仕事に興味を持ったのは、第3の仕事を求めての話であった
実はハローワークを通じて初めての面接だった、樹木葬の企画会社だった
面接の後すぐに丁寧に断られた、1年も前の話である
詮無いながらもそういうことにも勉強させていただいた
埋葬(納骨)の形は様々であるが、ここの遺骨はお寺の庭で手厚く祀られる
大きな石の墓標はないが、寺の中である、本物感?はある
一番いいことに、墓の将来(死後の姿)を容易に想像することが出来る
だから、自分用に生前に購入する人が増えている
墓参りもしてもらえない墓が、全国に何十万基いや何百万基とある
今でこれなら、我らの世代の次の世代になれば先祖代々の墓はほぼ無縁仏状態になるかも
ならば、負担にならない墓でないと子孫に恨まれるということになる
本山の塔頭寺院だから、年に何回かは厳かに法要も営んでくれるし、友の会もある
そうでなくとも新しい住人が増えてくることは事実だ
しかも、観光客では入れない・・ブランド志向にも対応できるわけである
それはさておき、もし採用されておれば私の仕事は何だったのかと言うと・・
お客の案内をする運転手と墓掃除である
古風に言うと墓守(はかもり)だった
小生の自分ことは既に心に決めている
だから、自分の墓の守をしようと言うのではない
人の墓を守するというそのことに憧れて応募したのに・・
・・である
採用されることはなかったけど、いい企画だと思っている
京都の寺院型の樹木葬は都市移民の我々の世代にとっていい落ち着きどころになる
どのような状態であっても、骨は自然のバクテリアのおかげで数十年で土と水となる
樹木の栄養となってもいいとさえ思えば、死後落ち着ける環境である
樹木の栄養になってもいいとさえ思えば、死ぬまで落ち着けることもある
小生も落ち着いて営業と墓守をしていれば、いい罪滅ぼしになったのにと、今でも残念に思っている
(29.7.8)
(写真註:オリエンタルユリとはハイブリッド、ベースは日本のユリ、ジャパニーズハイブリッドと呼ぶ)
往古、京都に都が出来たころ庶民の多くは自然葬(風葬)であった
京都に火葬場が運営されたのは明治になってからで東西両本願寺の運営であった
それが市営の火葬場の前身である
現代は都市では人の屍(しかばね)は焼却しなければならない
従って、焼却してからの措置を埋葬(まいそう)と言う、埋葬は墓地でなくてはならない
今の自然葬(しぜんそう)と言えば散骨(さんこつ)のことを言うのが多い
墓地以外のところへの埋葬(散骨)することも、秩序的・衛生的であれば宗教的儀式として許される
ただし、遺骨を細かく砕くなどの配慮が必要である
何よりも、散骨には明確な動機がなければ後ろめたいことになる
そんなことから、自然葬としては散骨より樹木葬(じゅもくそう)が増えそうだ
お寺が墓地として許可を得る、墓石の代わりに樹木をシンボルとする、土中に埋葬するのだから、そのまま現代の法体系に合う方法でもある
小生の長男は東山花山で灰になり、そのふもと、いつもたむろしていた円山公園に隣する東大谷で、親鸞の廟の土の一部になった
世に何もなさぬままの命を石碑に名を刻むまでのことはない
が、その代わり毎日、全国から墓参りに来た人が息子の分も祈ってくれる
長男のいない辛さは齢とともに深まってくるが、哀しむのは我々夫婦だけのことだ
立派な御廟の樹林の土の一部であればむしろ永遠だと思える
小生らには樹木葬も今始まった話ではない
いかな京都でも観光寺院としてやっていける寺院は少ない
土地を売ったり、幼稚園を経営したり、墓地や駐車場の経営をしている
新たに納骨堂を建てて墓地のマンションと言うのもあるが、
インターネットで墓参りが出来るなんてついつい世間と同じで無機化しすぎてしまう
それほどの土地も持たない寺院も樹木葬なら墓地の経営は出来る
樹木葬と言うのは合同墓地だから、庭の一角を整備すれば出来る
お寺の庭を墓地として樹木葬を進めていこうというのは有効な戦略だと思う
これからは大きな霊園を作って、これ以上石屋ばかりに儲けさせることはない
その気になればお寺そのものが経営出来る手法なのだ
本来は経営の問題と捕らまえるものではない
しかし、各宗派の本山は京都に集中している
拝観謝絶ながらある寺院では既にペットの霊園を営んだりしている
本山であってもそれぞれの塔頭寺院や寺内寺は独自の宗教経営をしていかなければならない
合同墓地や樹木葬と言うことになれば新しい檀家(固定客のこと)を持つことと同じである
しかも、拝観謝絶(拝観すべきものもない?)の寺院で(合同)法要に参加できるなら、京都観光に優越感を感じることも出来る
それなら息子も娘も孫も来てくれるかもしれないと思えば自分の墓作りに希望が出る
なんたって京都(みやこ)ブランドは有利でもある
京都ブランドが現代の都市移民である世代の役に立つかもしれない言う訳である
(29.7.10)
(写真註:ハイブリッド/ヤマユリの紋が入る)
庶民が立派な石の墓を持てるというのはそんなに古い話ではない
土葬から火葬への変化と重なる
それなのに今度は田舎の墓を打ち捨てて都会に新しい墓を建てだした
こちらの寺とつながらないから霊園墓地(れいえんぼち)などが売れ出した
それは今でも続いている
墓参りはしたいが田舎に帰るのは嫌な人もいる
自分の代の墓が欲しいという人もいる
田舎から都市への人口の移動に伴ってのものである
新たな都市住民(移民)としての証(あかし)を求めているようでもある
墓のあるところが故郷だというのも分かる
しかしながら、これからの家の寿命は墓石の寿命に比べて短すぎる
しかも、成功の証にしても立派すぎる
京都市が中央斎場の火葬件数の予想を立てている
市民のほぼ100%が火葬だから、市民の死者の数だと思えばいい
平成43年から47年の5年間ぐらいがピークになる
1日の火葬件数は(最大)138件になる、としている
中央斎場の1日の処理能力は120件(24基ある)程度らしい
やがて減少していくことが見えているので増設はしないということだ
平たく言うと、団塊の世代が85歳前後となる時期が死者のピークということだ
この間毎日18件分、1年で約6500件が生焼けになる(?)という計算だ
団塊の世代は最後の最後まで生きる競争だ、それどころか死ぬタイミングも・・
"阪神淡路"の時に経験したことであるが、焼き場を求めて役場と遺族がさまようこともあり得るわけである
立派な墓を用意して準備したからとて優先してくれるわけではない
だが、他人の墓に居候は出来ないのも事実だ
もう一つ京都市中央斎場が困ってることがあるという噂だ
京都(近畿圏)は部分収骨である
残りは火葬場で処理してくれる
灰の大部分を土に帰えすのであるが、果たして生焼け(?)ではうまく処理出来るかだ
当事者になればジョークでなくなる可能性はある
やはり、遺骨(焼却灰)は土に返すことが本当だと思う
その処理槽を丁寧に「聖土槽」と言ったりする
それがそのころには満杯になっている?
気にせず東山の樹林の土にしてもらっていい、と市民は思った
それが樹木葬に関心を持った小生の動機でもある
と言えば、くそ生意気かな
(29.7.12)
(写真註:下向きはオニユリの遺伝子が濃い)
ある墓地の宣伝で、自分のお墓のないことははかないことです″と言うのがあった
ジョークにしてはインパクトがある名文句だと思う
また、一方ある宗教グループは「お墓は無くてもいい」という運動をしたりしている
肉体は火葬したら、それで終わる
各地の自治体の条例では、もちろん火葬後すぐに遺骨は引き取られるものとなっている
前回に述べたが、わが京都市も慣習は部分収骨である
実際、火葬場に残された灰は丁寧に処理される
そのことではなく、全ての遺骨を受け取らないという運動だ
形としては火葬場で遺骨を受け取らない・・ということになる
その実現にはおそらく遺家族で大きな悶着となる
それが故人の明確な哲学であったとしても、それを実行する遺族には多大な負担がかかる
だが、世間は広い、一方でお骨を引き取った人がそれで困るというのもの現実である
所によっては大きな骨壺にすべての骨を引き取らされることもある
ずっと骨壺と一緒に暮らしているというのも心なき行為と言われる
遺骨でお地蔵さんやアクセサリーにしてくれる業者もいる
ここで言いたいのは、遺骨はそれぞれのお墓におさめられなければならないということになればである
行くべきところに行かない遺骨こそ成仏できない遺骨となる
だから、石屋が言うように「墓がないとはかない」ということにもなるのだが、
しかし、墓がなければその悩ましき束縛から逃れられるというのも本当だと思う
たしかに「墓がなくても」人間の生存の証に不足はないという考え方もあってもいい
人間が死を前にして生きる苦しさを救うのも宗教だろうし、
そのために形式を決め淡々と儀式を行うのも宗教である
一昼夜休むことなく多くの人が薪をくべながら荼毘に付した時代もある
50年前は土葬だったのが、貴賤の区別なく焼却炉で火葬という埋葬方法がやっと定着したのである
数十分で苦しむことなく、肉体(有機物)が灰(無機物)になるということを受け入れられるのなら・・
灰は既に土と同じである
既に成仏していると考える方が自然である
肉体と灰の間に自分を置いてこそ、魂のことを考えられるかもしれない
最後に残された儀式の場が墓である
それがただの儀式なのかどうかはあなた自身が考えればいいことだと思う
(29.7.15)
(写真註:オニユリはむかごが出来て子孫保存の技が多い)
あくまでも彼の研究の範囲ではあるが、
今、家に墓あり80%、が自分の墓無し15%、残り5%がその他・・らしい
その他には墓に興味がないということも含まれる、30%くらいはそうだという
合計したら125%になる変な100分率であるが・・
小生の友人が言うのは間違いなくこの10〜20年でその他″が5%から30%になるという
何故なら墓を持っている人もさることながら、墓に興味のなかった人も参入して来る
これからは自分で自分の(死後の)形を決めることになってくると言うのがその根拠である
しかも、これから10年20年は団塊の世代の動向に左右される
これからは何々家の墓と墓名が書いてあるのが虚しくなる
自分の墓を守りしてくれる人がいないことの方が本当にはかない″ことだと言うのが、彼の話である
彼とは、京都市内のお寺の副住職をしながら教団関係の寺務所にも詰めている
若手の僧侶たちにはこれからの葬儀と経営のあり方が一番の関心事であるのは当然だ
"仏事とは本当は辛いことなのだ、もっと言えば心の痛みを伴うものなのだ、僧侶はそのことを前提に檀家と付き合う修業をしてきた"と親は(現住職)はいまでもそう言う、と言っていた
彼はしてみれば、それならなお、これからの檀家の変化について行けるか不安である、とも言う
自分の骨の行くへが見えることが大事だということらしい
そのためには今以上にしっかりお寺とつながっておくことは大事なことだと言うのが論である
言い換えれば・・・現況でも30%は浮動票で、「家に墓あり」の70%に食い込んできて・・・
今までの墓を引き続き守れる保守派が過半数を割り込むようになれば死活問題らしい
まるで選挙みたいな話である
"死に方は自分で決められないけど、自分の骨が納まる形を決めておく必要はある、そうでなければそれまでの生き方も決まらない、自分の残された生き方を決めるのが終活だ"と言う
それでも、将来住職を継ぐまでの説教には使えそうな話やなぁとは言うておいた
墓もさることながら今生きている人を大事にできる住職にはなれそうな気はする
(29.7.17)
(写真註:ヘメロカリス/デーリリーとも言う)
町内のマンション住民の人には親子でマンションを持っている人がいる
同じマンションだったり、となりのマンションだったりする
祭の時にそんな話になりかかった
我ら路地の住人だって子や孫が近所にいる場合もある訳だからべつにおかしくない
そもそも子供に残してやれるものが古家一軒あるかないかだから
費用の出し方で、二世帯住宅ということもあり得るが、マンションの方が安くすむこともある
いや違うんだと役員をしているA氏が言う
娘の夫婦のためにマンションを買ってやれる人がいるんだと言い出した
もちろん恨みでも僻(ひがみ)みでない、暮らし方の問題だという
娘しか頼りにならないと決まった時の投資だという
何の投資?、自分の老後に対しての投資だという
そんな投資が必要なのか、あるいは有効なのだろうか
独立して生計を営んでいる限り、アニメ「サザエさん」のマスオさんとも少しだけ違う
娘が親の面倒を見るというのは打算とは違う
爺さん婆さんだって娘の孫の方が触りやすいというのも自然である
生命保険の受取人に娘の子(孫)を指定する
しかし、娘さんのご亭主はどう考えているのだろうか
A氏も小生も娘がいない
今更何を言っても仕方がないがたしかに娘がいないと孫がいないにもつながる
娘がいない不安に今襲われているわけである
息子も嫁も孫もおって何が不安であるのか
それは他人には分からないことである
という話になった訳である
7月24日は後祭(あとのまつりとも言う)
昔に戻して前祭と後祭にわけた先の長老の決断に敬意を表したい
鯵庵(7.21)
(写真註:ハスとスイレンを合わせて蓮華という。蓮根がレンコンであるが、花托も食することができる。若いハスの実(種も)生食できる。)
吾輩はスイカである・・?
「サザエさん」でタラちゃんが庭でスイカ割りをする場面があった
懐かしいと思う人がおったら、相当な年配だと思う
が、さりとてスイカを買おうと思うかどうか
今、スイカいくらするのか知っている
直販価格で10キロ未満のL寸で3000〜4000円である、やはり高い
京都でも祇園祭が終わった頃がスイカの季節である、が、8月に入ったら少し安くなる
スイカ網って知ってないだろう?
それから一世代、今頃網に入れたスイカをぶら下げている人を見たことがない
家族でスイカを食うシチュエーションがなくなっているのだ
3000円も出せば保証付きのメロンもある
結局スイカは親しみより懐かしみが勝っている
小さなころにスイカを食わされた小生も、田舎で畑のスイカを食ってきた家内も、皆、実は美味しいスイカに当たってなかったのである
実はスイカは甘くて美味しいのだ
世の中にはこんなことは多い、本来の味を知らないままのことが多い
有名産地では必死になって美味しいスイカづくりをしている人がいっぱいいる、その人が悪いのではない
スイカを作ることは出来るけど、美味しいスイカを作るのは難しいのだ
昔から素人が作ったスイカなど美味しくないに決まってる
街へトラックで来て産地直販とかの感覚で、美味しくないスイカを何十年にわたって食わしてきた輩がいるのだ
今更ブランド化したとて切り身で色を見てからしか売れないものになった
美味しくないスイカの祟りなのである
熱中症予防にスイカは持ってこいであるのだが・・
その気になれば美味しいスイカを食えるようになったころには家族がなくなってしまった・・
今の家庭には井戸もなければ丸ごとのスイカを入れる冷蔵庫もないのである
それが結論である、いやいやスイカの愚痴である
写真はサマーセール
(29.8.5)
(写真註:英語のロータスは色々なところで使われる。)
テレビドラマの墓参りのシーンはスマートだ
墓前に花と線香をたむける
人間の善やあるいは後悔を描くいいシチュエーションだ
ドラマだから墓の周りが草ぼうぼうということはない
都会で霊園墓地を買った人はそんな善なる場面に憧れる
小生の大阪郊外の墓地は親が買ったものだ
もう30年になる
あれから長男が死んで親父が死んだ
それぞれの名を刻んである
陽当たりにいい墓である
し、親父も自分でしつらえた墓に入るのだから満足していると思う
その親父の墓を守るために今日は30キロ走ってきて
炎天下、地面をはいつくばって小鎌で草の根を切る
それからやっと墓石を洗って線香に火をつけるころには汗だくだ
帰りに家内が"小生が先に死んだら霊園の墓地の始末をする"と言い出した
一人では墓参りも出来ないし、なおさら墓掃除に30キロも年寄りが走ってくることなど出来る筈がない
我が家は既に、長男も親父も東大谷の御廟に納骨してある
我らもそこであれば困らない
それなら、歩ける限り毎日でもくることは出来る
墓地があるからと言って大阪郊外まで持って行く必要はない
丹波の家内の里では盆前に檀家総出で墓掃除をする
掃除は家を守る婆(ばば)ばかりだ
しかし、お盆には賑やかに家族でお参りする墓であれば報われる
誰も来ない墓が増えている、そんな噂話ばかりだ
うちだって、もうすぐ墓掃除に出る人がいなくなるだろう
テレビドラマとそこが違うのだ
墓掃除する人と墓参りする人とは違うのだ・・?
(29.8.12)
(写真註:グラジオラスと空蝉(うつせみ)/セミの抜け殻を空蝉という。この世に生きている人も何故か空蝉という。)
お盆のちょっと前のことである、いつものことながら暇つぶしにテレビを見ていた
お盆に家族が寄る機会を互いに大事にして・・就活をしておけというのだ
一は預金のありかと額(遺産のこと)
二は誰が介護をするかということ
三は葬儀の仕方のこと、あえて追加すれば誰まで呼べばいいかということ
自分の仕舞いを子供たちと決めておくことこそトラブルを防ぐ方法だとのたまう訳である
うっとおしいものを見てしまった
そもそもお盆にしか会えないのは家族ではない
こんな話に土俵も行司もない
昔は何かとオジキが出てきてくれて欲に突っ張った奴を叱りながら納めてくれたものだが今時の欲張りはこんな時にも理屈を言って人の話を聞かない
せめて人の話を聞けるならそもそも問題が起きない
子供に預金の話をあからさまに出来る親は今は1割もいないだろう
そんなことをする人は生きてる間に地獄を見る
介護のことを子供や嫁にあらかじめ頼んだとて何の保証もない
それどころかなんやかんや言って前金取られる
葬儀に誰を呼ぶかなんて言ったって、そもそも思惑がずれている
来てほしい人は来てくれないことになる
子供にとっては連絡先もわからなければかえって免罪符になる
誰かが言っていた、今の年寄りは隠居さんではないのである
そもそも、相続とは正に子供らに譲らなかったもののことである
親も子もそれぞれ別々の世帯でまるっきり違う家計を営んでいるのである
たまたま法律は家族や家庭に入ってこない
自分の持っているもので施設でも入ってくれ
そうでなければずっと入院してほしい
そうでなければ元気な時に死んでほしい
そこまで言われれば親としては幸福の部である
隠居どころか息子の扶養家族になるわけにはいかん
自分の仕舞いを自分流に出来たとしたら僥倖だろう
それよりも先に老後破産だってあり得る訳である
僅かな年金を頼りに大人になっても離れない大人子供が沢山いるらしい
さっきの話はそんな人の話ではないかという
ボケてしまいたいという人が多い
なおさら、就活アドバイザーに言われるとけったくそが悪い
やりたい人にやれるのは生命保険だけらしい
生命保険はボケる前に入っとくべきだというのはいいアドバイスだった
やはりスポンサーに保険会社が入っていた
現世(うつしよ)は一人旅である
五山の送り火を遠く眺めながら思ったことである
(29.8.17)
(写真註:アオイ目アオイ科フヨウ属は多い。その内熱帯・亜熱帯のイメージを持つものをハイビスカスと呼んでいる。)
親が本当に子供に望んでいるのは成績じゃない、実は子供の性格なんだ、・・と
子供にとっての環境のほとんどは両親と両親との生活空間である
性格などと言うから、多様性なり個性などと言う言葉が乱入して来て分からなくなってしまう
性根(しょうね)と言いかえて見れば理解しやすい
人から金を巻き上げる子
平気でうそがつける子
親の金を当てにして生きてる子
食生活と味覚が歪(いびつ)な子
幾つになっても勉強しようとしない子
異性に興味を持たない子
自分だけは何をしてもかまわないと思ってる子、などなど・・
こんなことを性格などと言ってたら、大人になっても一生治らないよ
性格(せいかく)は遺伝しないかも、しかし性根(しょうね)は遺伝する
親も注意、何故なら子供は必ず親の真似をして親を超えるよ
女性が一人で一生懸命育てた子なのに・・
大きくなったら別れた昔の夫そのままになってしまったなどと言う話は余りにも辛い
女性は夫も子も一緒に育てていくものなのであるという・・
夫を育てられない女性は子供も育てられないと書いてあった
そこまで言われると女性は辛すぎる
ただ、育て方の問題ではない
親にとってはどうしようもない哀しさなのだ
せめて男の子は父親と女の子は母親と暮らす方がいいと言う
20年以上前、離婚が流行り出した頃の本の一節である
親だけが子供を囲い込んで育てたのでは性根は治らないという説である
子供は社会に育てられるというようなテーマだったと思う
今時、、そんな分かり切ったことを書いた本など売れはしないだろうけどね
(29.8.21)
(写真註:ハスも繁茂すると他の水生植物に影響が大きい。ただそのハスもアカミミガメには絶滅にまで追い込まれる)
どちらから攻めても"女性の地位"というのは嫌いな言葉だ
原始というか本来というか女性の地位は高いものだ・・?
女性こそ神の間近に仕えることも出来るし、神と人との媒介を出来るものであった
それは巫女(みこ)に限った話ではなく、主婦というのはそう言うものであった
家の神であった
男の子は「鬼ごっこ」で、女の子の遊びを「ままごと」という
"ままごと"とは"まねごと"であろう
家の神のまねごとである
供物を集めて並べることはあくまでもままごとであるが
それをお盆の行事にすれば「施餓鬼(せがき)」である
それはまた「地蔵盆(じぞうぼん)」の行事のもとでもある、ということである
何が大事かというと、このような遊びごとは齢を加えていくことにある
年長の女子は小さい子の面倒を見ながら一人前になっていくことである
七五三もさることながら、女子には十三参りもある
数え年13歳を原則とすればちょうど小学校を経て中学に入るころになる
女子の元服である、花の色が分かる蕾である
女の子は早熟であるがそれが体だけのことでは罪が深い
13歳が元服なら17歳は成女式である
未婚であっても17歳になれば鉄漿(お歯黒)をした時代や地方もがある
「ママゴト」がこれから「オカサマゴッコ」になる
主婦ごっこなのである
最初はゴッコでいいのだよ
その時を大事にして大人の女になっていくゴッコを続けて欲しい
地位と社会進出は別のものだ
女性が太陽だったという信仰は女性への期待の信仰なのであると思う
小生は素朴な信者である
鯵庵(29.11.1)
(写真註:ヒョウモンチョウはヒョウ柄である)
京都のある先生の持論、日本の社会制度は女性原理で出来ているという
そもそも、男性的だと思っていたことが実は女性原理の表現だったりするという
その元は・・、先の敗戦の時に日本の家長制度に女性が虐げられていると占領軍が理解していたことが大きな誤解であったと言っている
ここからは小生の論、つまらんたとえ話をする
どこにいても「アカンもんはアカン」と言い切れる男性が何人いるだろうか
外では会社では男らしく立派なんだが、・・という人もいるかもしれない
それが、妻にも、子供にもきちっと言えるだろうか
それより妻や子供を本当に守れているのだろうか?
自分の配偶者を”奥さん”と言う男性が20年前から出てきた
20年前はそれでもジョークとしてもパイオニア的存在だった
密かに出世が出来ない男性の代名詞に使っていた
が、この頃見ているとテレビでも沢山出てきた
ニューファミリーの2乗と我らニューファミリー世代がからかっていたけれど地位が逆転した
思えば、そう言われていることに抵抗のない女性が増えたということだろう
女性の賢さはいつも数の問題だ
バカである方が受ける風潮に抵抗するのには女性原理が邪魔をする
無理して損することないやんか、と女性陣が団結する
貰えるものなら貰っとけばいい
男は頼りなく優しい方がいいやんかとまた団結する
強いゆえに優しかった男は夜も蚊帳の中に入れてもらえない
日本は狩猟民族に戦争で敗けた
狩猟民族が農耕民族の男の立場を正しく理解できなかったのは仕方がない
という話は理解できる
いやその誤解はむしろ占領政策としては効果的だったと言えるのではないかと思う
ただ、日本女性の出来の良さを誤解していたというのも本当だろう
だけど、誤解を正さないのはそれが女性原理である
誤解は何時か正さなければならないというのが男性原理なんだけど・・
せっかくの家庭平和、今となっては壊したくないよな・・
かくして、ダメなものはダメなどと喚く間がなくなった
それを余生原理(小生の造語)と言う?
(29.11.22)
(写真註:熟したピラカンサスに雪が)
寒に入って寒さの底に沈んでいく
今日は親父が着ていたジャンパーを引っ張り出して着ている
昔、雪の日に車椅子に乗せて歯医者に連れて行った
その時このジャンパーを着ていた
もう20年近くも前になるが、ちょうどこの時期だった
家内はもうクリーニングに出さないで処分してくれという
形見のジャンパーなど見たくないという
もちろん、こんなもの残していても間違っても私の息子が着る筈もない
そもそも息子がうちの親父が着ていたなー、なんて思う筈もない
家内は単にクリーニング代が高くつくことを言ってるだけだろう
いや、そうするつもりでいる
ポケットが2段になっていて、携帯も入るし手も入るし温かい
病気の親父を寒さから守ってくれたのだ
しかし、もう型が古すぎる
実は少し匂いがするのだ
クリーニングの匂い?
洋服ダンスの匂い?
薬の匂い、病院の匂い?
いや、正しくは加齢臭である
それも親子2代の加齢臭だ
親父が死んだ年まではあと少し間はあるが・・
こちらも色々と片づけながら生きていかなければならない年になってしまった
立春になるまで着よう
と、いうことで寒がおさまった頃には処分するつもりだ
(30.1.10)
(写真註:シュウメイギクの種子はワタになる)
小生の母親は片足がない
もう一方も湾曲している
だから、寝たきりだ
小生は面倒見ていない
社会とこの前離婚した妹に任せきりだ
ここからは夢の話である
その母親がひょっこりひょっこり歩いてくる姿が見える
"おーい、おーい"と言っている
いつの間にかエンジンのついた車椅子になり
いつの間にかそれに縄がつけられ私の首に巻き付いている
"親孝行出来なければ今が地獄だぞ"と言っている
引っ張られて引っ張られて一緒に地面の底に沈んでゆく
ここまで見れば、夢も覚める
小便してもう一度眠ったら・・
今度は体がぶくぶく太って相撲取りみたいになって
アタマの傷をホッチキスで止めているのを見た
また、夢だった
小便をしてまた布団にもぐったらまた母の夢に戻った
現実に何一つ親孝行してないのだから
夢で苦しむぐらいのことは当たり前だと開き直ったらやっと寝られたようだった
明け方、
一人どうしようもない孤独の中にいる母の姿は自分の姿かもしれない
それは夢ではない
と、気づいたらついにそれ以上眠れなくなってこのブログを書いていた
それをやっと載せることにした
(30.1.26)
(写真註:フヨウの冬)
生命保険会社は商売で色々な研究をしている
ただ、目的ははっきりしている
そんな時にも「生活設計」などと言う単語を使うのが特色だ
そもそも、生活は設計できるもんだろうかというのが素朴な疑問でる
ひどいのになると、65歳以降老後のスタート資金は最低で3千万円いるというのもあった・・
ほとんど脅しである、何をか言わんである
そんな資金持ってる人が何割いるのだろうか
また、そんな暮らしはどんな暮らしなのだろうか
それでも、90歳には貯蓄は0になるという
小生の友人は定年後にファイナンシャルプランナーとかいう仕事を始めた
60歳からほぼ10年で3千万円ぐらいは稼ぐのが目的であると言っていた
年ん百万は稼ぎたいのだけれどと言っていたが、とても設計どおりには行ってないようだ
小生もリーマンショック以来銀行との付き合いも距離を置いている
30年かけた死亡保険もやめた、保険金詐欺にも縁はない
子や孫に頼らなくとも何とか家内と一緒に自分のゴールをめざせるとすればともかくは御の字である
我が国は立派な社会福祉国家だと今のところ認識している
怖いのは、制度の隙間に入ってしまうことである
そんなことがあるならなおさら設計のしようがないという方が当たっている
生活設計は若い時にすべきである
その第一が就職である
その第二が結婚である
設計というのは作るものがあるからなのだ
何のために勉強してきたのだろうか・・と思ったときに設計が必要なのである
基礎だけでもしっかり設計すべきではある
生命保険会社や銀行などの言う生活設計はそれからのことだ
生活設計と人生設計と同じように思わせるところに特色がある
これからは老後がなくなるかもしれない
生きているうちは働かなければならないかも・・
小生らはいつもつっかい棒の設計ばかりしている
(30.2.2)
(写真註:早春の花・ボケ)
家内の友達が来て、茶を飲みながら語る
「おかーさん」と言って電話がかかってきた
そのうるさいおばさんが優しい声でが「○○(孫)は元気か?」と言う・・
あっという間に「スンマセン間違いました」と言って電話を切られた
・・という
そんなことあるのん
それ間違い電話?
何を間違ったの?
自分の母親と亭主の母親と掛け間違い?
確かに間違い電話ではあるけれど・・そんなん、電話帳でもっとはなしとかな
せっかくかかってきた電話で「間違い電話」と言われたらなんとも気合の悪い話だった
と、思ってやった
女も結構年とってから辛い人生が始まる・・ような気がした
この正月も孫に会えなかったみたい、それを言いに来た、ようだ
しゃーけどそれぐらいのことは自分らも気が付かんとやってるのとちゃうか
女だって昔のツケはあるやろ
孫にはそう言われんようにせめて作戦練っとかな
鯵庵(30.2.15)
(写真註:ミツマタの花。二つ三つ開いたころが一番いい。)
何万年も辛抱していた休火山が噴火するのは、ありえないことの例えである
磯野家の脇をがっちり固めているマスオさんが・・
ひょんなことから里へ帰ることになった
もちろん仮定の話である
磯野家は福岡から来た
フグ田家は大阪である
一度も舅や嫁の前で大阪弁も語らなかったマスオさんが??
ついに「里へ帰らせてもらいます」と言った
たとえそうでなかっても、大阪転勤もあり得る訳である
も一度言うが仮定の話である
サザエはどうするのだろうか
大阪へタラオをつれてついて行ける女ではない
タラオはまだ小さい、それでも単身赴任ならあり得るかもしれない
サザエは言うだろう、せめて福岡ならついていくかも
小生の昔の会社では大阪支社勤務になるくらいなら、九州もしくは北海道まで行った方がましだと言う
ましてや京都などと言ったら、もう、帰り道が遠すぎる、という
そのかわり大阪で送別会すれば、「はよ帰ってこい」と皆が言う
送られたものも最後まで大阪弁を通すものだから意外と早く帰れる
もう一つは、悲しいかな奥さんがもたないだから、結局早い目に引き上げてくることになる
家庭がもたなければ仕事する意味がない
波平さんはマスオさんと絶対喧嘩しない
何十年たっても喧嘩したのを見たことがない
それはマスオさんの覚悟である
サザエの覚悟だとみている人がいるがいるが、それは違う
「サザエさん」でマスオさんが主役だといった意味がそこにある
本当に世の中はマスオさんみたいな人が主役である
仕事で失敗でもしたら、いつか「里(大阪)へ帰ります」と言い出すドラマを期待している
マスオさんだって、いつか噴火するというのは当たり前だと思うのだが
やっと東芝がスポンサーを止める時が来た
磯野家の屋台骨が・・崩れる????
(30.2.19)
(写真註:二ホンスイセン)
小生の庭仕事は実は遺品整理だったのだ
湖東に住んでた大従兄弟(いとこ)が亡くなって3年になる
庭付きの分譲住宅が自慢だったが、その庭が倒れた時のままだということだ
遺族はもう庭などかまってられない
だが庭は遺品整理屋でも扱ってくれないし宅急便で送る訳にもいかん
小生庭いじりが好きで田舎ではほとんど自分でする
そういうことだ
一作年の初冬だった
ミニ耕運機と道具をこっちの田舎から車に積んで行った
暗いうちに栗東あたりまで行って一日庭師のまねごとをしてきたわけだ
木はほぼ幹だけにした、選定枝は鉈で小枝を払い井桁に積んどいた
プラ鉢は割れてるのもそうでないのも皆プラゴミにする
鉢棚などは出来るだけ細かく切断一切ゴミにした
一部金属が混じるがゴミはそれだけである
石は出来るだけひとまとめにした
鉢植えは全部鉢から上げて、焼き物の鉢は玄翁で細かく割った
それをまた鉢の土と、なおレンガなど砕いて傾斜をつけて山野草風に植え付けた
その後ろのブロック塀を支柱にして持って行った竹を4つ目垣風に組んだ
少し締りは緩いがおとこ結びは得意である
クレマチスなどツルものはその下に地植えした
剪定しなくても数年、春だけなら咲くだろう
空いたことろ木の下などに持って行ったスイセンの球根を無造作に植えた
逆に生き残ってた盆栽やツツジ類は裸にして車に積んだ
そこにあった園芸道具なども車に積んで持ってかえってきた
ほぼ更地になって殺風景なほどきれいになった
枯れるものは枯れていい、水やりも植え替えもしなくてもいい
枯山水ではない、陽当たりのいい枯れ庭である
便りがあって、今年は早、日本水仙が満開ですと言ってきた
せっかくの大工事だったけど家を処分することになったということだ
え、まさか相続税??
一人になって80歳になったので施設に入るようになったらしい・・
そう家族で決まったということで挨拶があった
庭師(?)として頭を使った作品(遺品整理)である・・??
も少し待てばクレマチスが花を・・
所詮去年の春と今年の春はまた違う
しかし、ほっといてもスイセンだけなら来年も咲いているに違いない
(30.2.23)
(写真註:早春に咲くシナマンサク。枯れ葉が残っていて、近づかないと花が見れない。)
路地子(小生のこと)の友人の一人は自己紹介のセリフを決めている
"亭主が死んでも泣かない女の亭主です"ということにしてる
おそらく泣かないだろう・・きっと泣かないだろう・・間違いなく泣かないだろう
と続く
間違わないでほしい、という
亭主が死んで喜ぶとは言っていない、と力を入れる
その代わり、困るとも言っていない
50年近く、何やかやと言って一緒に暮らしてきて
"今になって泣くような女に育てたつもりはない"というのが友人の唯一の啖呵だ
残された女も、明るい老後が目の前にあるのだから少々の苦労は仕方がない
自分が先に死ぬと、後の事務手続きでは困るだろうなという
確かに社会の制度は、手前勝手を信条にしてきた女性には難しい
あとは健康だ
そのためには老けてはおられないと温水プール付きのジムに通い出した
世の中困ることがあっても泣くほどのことはない
でも寂しくないことはない、都合のいい話し相手が一人減ったのだから
よく考えればこの頃鼻についていたのだから
思えばもっと早く行(逝)ってくれてたら・・それが悔しいという
ついでにうちの家内の気持ちを忖度してみました
ここまで書いてきて、読者に誤解されそうだと気付いた
あくまでもそんな女が好きだという友人の話なのである
小生が付け加えてしかも誤解を恐れずに言えば・・
ここまで来れば女はたくましい方がいい、変な色気が残ってない方がいい
それが図々しく思えることもあるが・・そのおかげで助かっているのだ
変な色気が残っていると死因が疑われるようなことも世の中にはある
亭主亡き後最後まで一人で生きていける女であってほしいと思う
それが安心というものだ???
(30.3.10)
(写真註:ハクモクレン。ハクモクレンが開くと1週間以内にソメイヨシノが開花する。)
この世とあの世のことは仏教用語では此岸(しがん)・彼岸(ひがん)と言います
あの世は真西にあるので太陽が真西に沈むこの日がお彼岸と言う訳でしょうね
この世のこともわかりません
この世のことも説明されないまま、あの世のこと言われても困ります・・、
言えることは、この世からあの世は私らには見えてません
この世があるようにあの世があるのではないということは私にもわかります
もし、あの世からはこの世が見えますよと言われたら、あの世の私は困りますね
残した妻のことは別にしても、子や孫の姿は見たいと思います
出来れば家が残っていてほしいです
それは私が本当に凡人だからです
しかし、仮に姿は見えてもその心は見えません
どうせ凡人にはこの世で見えなかったものが見えるはずがありません
きっと、死んだ人は生きてる時と違うことを言うものだと思います
こちらが思わなければ何もないし、仮にあなたが思えばそこに仏がいるかもしれません
あの世に行って仏になったら見えるかもしれないが、経験がありません
未熟でも仏は厳しいことは言わないと思いますよ
だから生地のまま生きていける
それを劣性遺伝というのです??・・!!
だから救われているのです・・よ
(30.3.19)
(写真註:テッセンはクレマチスであるが、クレマチスはテッセンではない。)
鯵庵のブログの下に勝手な宣伝が載っている
小生には小生向きの公告になる
いやらしいことを妄想しそれを書いてばかりだからその手の忖度(そんたく)広告が乗っかってくるのである
広告としてはそれでないと効果がない
具体的には「55歳から深刻化する?包茎問題」というのもう頻繁に出る
広告主はもちろんその筋の真面目なクリニックだけど
何でいまさら55歳から???何でいまさらと思ったわけである
気になったついでに開いてみると
?年取ったら包茎が進むとあった・・そらそこらじゅうが皺(しわ)だらけになるのだからしゃないのとちゃう、ほっとけ
A今からでも遅くない・・高いやろ、やってもいいけど正直今更もったいない
B介護で初めて気づいた親父の包茎・・娘や孫には見られたくない、当たり前じゃ・・・
だが、それでうちの家内が恥をかくというなら、やってみるか
こんなことブログに書くかと思われるけど・・Bがなければ書かなかった
年寄りは金を持っている、そして使い道に困っている
さりとて人のために金は使わない
そのくせまだ現役思考、内々の野心がある・・
それがまた世間が見ている年寄り像だとも言えるのではないか
と、感じた訳である
男と女のことなら、老後といえども万が一のこともあるだろう
それだけではない、もっと言えば高齢同士と言えども女性への思いやりかもしれない
こういうのを洗練された騎士道(昔はプレイボーイもしくわ好色爺と言われた)というのだろうね
いつかおむつをするようになっても騎士道は必要である?
確かに息子や嫁や娘にあるいは孫に"長い人生が包茎だった"のはばれたくない・・?!
当たり前じゃ、自分でも包茎の子孫と言われたら生きていくのが嫌になる
場合によっては孫が、いじめの対象になる
ただ、統計的には包茎の子孫は我が国人口の約9割に当たる
美容整形の医者がそのことに気づいたわけである
包茎手術は割がいいともいえる
そう思えばこういうささやき(鼻につく)広告も意外と効果があるかもしれない
小生の見聞き学識では人間が進化したカッパは皆包茎である?
それは本当は優性遺伝なのである
(30.3.21)
(写真註:)
3年前に大従兄弟が亡くなったことは書いた
従兄弟でも20歳近く年齢差があった
大昔の名門獣医専門学校に学んで〇〇県庁に勤務する獣医だった
獣医の仕事というのはほぼ役所に限られていた
馬や牛が家で飼われていた時代の話である
家畜というのは子も産むし病気にもなるのである
50年以上も時代を遡れば家畜の生死に自分らの生活がかかっているのである
農業や養豚の人には慕われはしたが、家族は県内転々と転勤ばかりであった
何よりも公務員としての自覚があって初めて勤まる仕事だった
獣医の仕事はこの数十年の変遷の大きな仕事の一つである
馬や牛から豚になり、犬・猫になりネズミからカメやワニにまで移っていく
動物園なら人間以外の動物は全て獣医の世話になる
なすすべがない鳥インフルも獣医の仕事なのだ
一方、今時はペット病院で衛生的な手術台で不妊手術などで荒稼ぎしているのも獣医だ
四国の獣医学校の認可で政治がもめた
四国では獣医が不足だというし全国の獣医の団体は余っているという
そんなこんなでも、小生はたくましい公務員獣医が育ってほしいと思うが
おそらく入学生が夢見ているのはペット病院の経営だろう
家畜というものが死語になってしまっているのだから仕方がないともいえる
公務員生活というのは極端に地味である
大従兄弟夫婦の庭の整理をして少しは手助けしたつもりだが、いまその庭に主はいない
家族の決定で公務員獣医の妻は施設に入った
人は働いて家族を作る、そしていく分かのものを蓄える
その蓄えをこれからの人生で消費していく
それでもそれはある程度幸せなことでもある
同じ子供を育てるためでも人の為になったのが良かったと言う
結局売りに出してるその家の庭に地植えにしたクレマチスの花が残された
家が無くなってもまだ人生終わった訳ではない
水をやる人がいなくなっただけだ
(30.5.3)