新切鰺(しんぎれあじ)の京都巷談。新切鰺は都市漂泊。舌足らずの言いっぱなしブログです。京都暮らしの横断面図は不都合事情。家族編の第2章です。歌謡曲「吾亦紅」の歌詞につっこんでみました。31.4.18
(写真註:吾亦紅シリーズはアジサイの花を楽しんでもらいます)
〔吾亦紅(われもこう)について〕
日本各地に自生する、秋に俵型の花の穂をつける。花は暗い紅紫色で、苞と萼だけで花弁はない。花材やドライフラワーにして利用されることが多い。漢方では地楡(ちゆ)という。たいてい図鑑の一番最後に記載されている・・。
吾も亦紅なりとひそやかに(高浜虚子)
ワレモコウという植物がある
バラ科であるが、秋目立たない赤い花が咲く
それを漢字で書いて「吾亦紅」とする
その謂れには諸説あるが・・意味の分からない名である
「わたしもまた赤い」が直訳である
歌謡曲に「吾亦紅(われもこう)」という曲がある
シンガーソングライターすぎもとまさとの曲である
亡くなった母に親不孝を謝る歌詞である
なかなかな名曲であるしファンも多い
ただ、少し余計なセリフが入っている
その母に今は少し威張ってみたいという
"来月で俺離婚する・・・(イコール?)・・始めて自分を生きる"
だから、この曲を好きな人が多い
それはそれでいいんだろう
親不孝を詫びる気持ちは多くの人の本音なのだから
だがここにこのセリフが入ると、離婚しなかったのが親不孝に聞こえる
しかも、来月に離婚するというが、予定投稿じゃあるまいに・・
遅いだけで失敗だ、そんなこときっちり離婚してから言えと・・突っ込みたくなる
それにしても離婚が親孝行だというこの息子とこの母はどういう親子なのだろうか
いや本当に何を謝っているのだろうか?
それほど母がへばりついても守ってくれていた家は今は従兄弟(他人)が住んでいる
そして、今になってやっと妻の束縛から逃れて・・自分を生きる???
あるいは相続の失敗・・かもしれないが歌謡曲の涙の色が他とは違っていそうだ
舅・姑が死んでも結局嫁は今までも自分を生きて、別れた後のこれからも自分を生きることになりそうだ
こんな歌を家族で平気で歌ってる馬鹿馬鹿しさと、哀しさに気づいたらかえって寂しくなる
ともかく今は自分を生きるとは何だろうかと我々に考えさせられる歌ということで終わります
なおこの場合の吾亦紅とは"私も花の中に入れてや"という意味である
※日付はブログとして書いた日である、このページの記事とは関係ない(30.5.19)
(写真註:アジサイは花の形が変化に富んでいる)
テレビで見た話である
父親が亡くなって、母親が残った
息子と財産分与の話をしていると既に亡くなった妹の息子(孫)が現れた
ほぼ、何十年か振りぶりである
しかも、葬式が終わってからのことである
クイズ形式だから、この孫に相続権があるか?ということである
答えは「ある」ということである
既に亡くなっている妹の分を引き継いている
これを代襲相続(だいしゅうそうぞく)という
亡くなった人の妻が半分、
子供は二人だったから妹の子は長男と同じで4分の1の相続権がある
故人も忘れていたかもしれない
数十年も寄り付かなかったこの孫(と父親)に母親は住むところ(家)を奪われる結論になる訳である
しかも今度母親が死んだときにまた出てくることになる
同じ孫でも生きてる息子の子は相続人ではないし、
極端に言うと将来の遺産が半減した訳である
うま味のある話はその逆が存在する
相続とはそういうことだろう
故人の遺志は確かに尊重できるが、さりとて故人の遺志は曖昧なことが多い
法律がそのことを救っているのかもしれない
少なくとも個人の財産権というものを明確に認めてくれているのである
もめるなら皆で放棄しなさいということだ
国へ返してもらってもいいですよ、とくる
この話続けます(30.5.20)
(写真註:長いこと育てていたがついに枯らしてしまった)
少し実際の話をする
以前に家内の叔父が亡くなった
叔母が先に亡くなって、少しの間だった
叔父には子がなかった
叔父は叔母の家に婿養子に行っていた
叔父の父母はすでにない
だから、叔父の相続人は叔父の実の兄弟ということになる
叔父の兄(家内の父)はすでにないので娘である家内が相続人の一員になる
これを、前項でも言った、代襲相続である
たまたま、叔母が先に亡くなったためにこういうことになった
先に亡くなった叔母にも姉妹も身内もいる
家内ら相続人は一致して相続の放棄をした
弁護士は我らの相続放棄の手続きを受けて、叔母の妹らに特別相続の手続きをしなければならなかった
養子婚姻の話であるが、実は嫁でも同じである
子供がなく配偶者が後に残ったら、自分の財産が妻が亡くなった後、妻の兄弟姉妹の方へ移行する可能性が生じるのである
もちろん子供がおればこのような事態は起こらない筈なのだが・・
後先は相続にとっても分かれ道になる
この項暫く続く(30.5.22)
(写真註:このブルーは勧修寺のアジサイ)
家内の叔父の相続放棄事件を前項で書いた
子供がいなかったために父母・兄弟への相続が発生した訳である
予期せざることでもあった
数年前までは叔父叔母夫婦は二人で普通に暮らしていた
叔母が先に亡くなった、それから始まった
実は叔父叔母には息子がいた
社会人になって働いていたが、30年前に突然家出した
行方不明である、社会人だからそう心配することもない・・
と、思っていたらいつの間にか30年近くになってしまった
もはや60才にもなる筈だし、元気でいればそれでいいと
いつまで待っていたいのは親の気持ちである
だが、叔母が亡くなって困ったのは相続である
預金や財産の移動が出来ないのだ
息子が生きてる限り息子も相続人であり、相続の手続きが進められないのである
叔父が法律相談に行った弁護士は、失踪の手続きを勧めた
しかも、その手続きは叔父が亡くなった後では出来なくなることを教えられた
弁護士に失踪宣告の手続きをお願いすることになった次第である
庶民には悲しいことは忘れる前にやってくる
その失踪手続き中に叔父が亡くなったのである
妻を亡くした男は早い、その例だったのかもしれないが
失踪宣告に老いの生涯のエネルギー(希望)を費やしたのかもしれない
だが、既に失踪手続きは淡々と進められ、最後は一片の紙切れが掲示された
葬儀の時にその流れを弁護士から聞かされたものは法律の厳しさに驚かされた
叔父の最期の意思がどこにあったのか我々には知り得ない
息子の失踪の手続きは自分が息子にしてやれる最期の法律手続きだったのだろう
遺骨を見ないまま死を認めることは出来ない日本人の宗教感もあるだろう
それでも、どこかで生きてくれていればそれでいい、と死ぬまで思っていただろう
もちろん生存していたとしたら、本人によって失踪宣告は取り消すことが出来る
宣告をなかったすることに出来るが、宣告後取り消しまでの期間の行為(善意の)は戻すことが出来ない
誰であっても他家の財産までは手を出してはいけない
叔父叔母のささやかな財産は叔父叔母の個人の財産だけでなく家族の財産なのだ
最後まで子供に残してやりたい思いだったろうとは十分に推察できる
弁護士さんの尽力で、家族が住んでいた家を残すことが出来た
そのための手続きにやっと遺産を使えるようになった?
(30.5.22)
(写真註:アジサイ写真の味はこの小さな花にある)
婿養子は結婚と同時に妻の親の相続人になることでもある
男女は結婚によって夫か妻かの姓を選ぶことが出来る
小生の妻は小生の姓を名乗ってる小生の配偶者であり、我が家の主婦(神)ではある、また親から見たら大事な嫁ではあるが小生の親の相続人ではない
しかし、婿養子の場合は、妻の姓を名乗るということにそれ以上の期待と拘束があるのである
現行民法では婚姻と同時に夫が妻の親と養子縁組することが出来る
また、結婚の後に、後に養子になることも出来る
テレビ「サザエさん」のマスオさんは妻と子供、家族と一緒に暮らしている
ご存じの通りフグ田家の戸主であるが、磯野家にお世話になっている
2世帯住宅型のハシリではあるが、家族一体型でありまだ2世帯型にはなっていない
妻の実家で暮らしているが、磯野波平さんとフネさん夫婦の養子ではない
これを一つの事例として「マスオさん」という立場が皆に知られることになった
現代はマスオさん型だと言われる
一つは避けることのできない嫁と姑の問題が無くなる
もう一つは相続関係者にとって中立な立場を強調できる
もう一つは、反乱を起こさない、圧力を感じなくていい存在である
そう思って見ればガスのようである
臭いでもしなければ存在に気づかない
しかし、大事なことはサザエの存在がある限り娘婿にもやがてそれにふさわしい存在がある
家族同然にどう報いるか?波平さんがどう考えているかだろう
漫画の世界にはないことが現実の世間には起こる
仮にサザエとマスオが離婚するという事件が起こったら・・磯野家(フグ田家ではない)の危機につながる
今、大阪のフグ田家はマスオさん状態に口出しをしていない
仮にマスオさんが磯野家の養子になると言えば今度はフグ田家が倒壊することになる
一軒の家が滅ぶことは簡単だがその分相続関係が複雑にもなる
磯野家・フグ田家二家が一つの家族のように暮らしている
今の距離感がギリギリのバランスが取れているのだろう
家族がテーマでありながらその中で家族とは何なのかと常に考えているのはマスオさんだけなのである
だから、テレビ「サザエさん」の主役はマスオさんだと鯵庵は言う
勝手余談である
このシリーズの最初に引用した親不孝を詫びる「吾亦紅(われもこう)」の歌はそのマスオさんの将来を歌ってるのだと鯵庵は思っている
♪来月で俺離婚するするんだよ、そうはじめて自分を生きる・・
そう思えば初めて詩が生きてくる
まだまだ続く(30.3.26)
(写真註:ヤマアジサイ)
相続とは本来子供である
が、なおさらに不動産があると分割の方法でもめることが多くなる
特に、都会ではローン済んだ家が残ることになる
親の代もしくは自分が、都市に出てきて一軒の家を確保することは並大抵でなかった
退職金や年金の蓄えは老後期間が長くなると底をついている
家が残っておれば人並み以上に暮らせたことになる
住んでいる限り自分の家には財産価値がないのに等しい
だが、都市では土地やマンションの評価は確実にある
だから、家を処分して分割しなければならない事例が多くなる
だからこそ、数十年も寄り付かなかった子や孫が寄ってくるのである
テレビの話はそういうことだ
テレビではそれは笑って済ませられるだが、
財産が不動産だけだったらそれを金に代えなければならない
家業があったとしたらそこで終わることになる
極端に言えば伝統工芸だって人間国宝だってそこで終わることもある
継ぐのは技ではなく、不動産だけなのだから
家族の家でなくなってしまっていた
家に跡取りがないのだから・・・・・
そうでなければただの空き家だ
誰かが言っていた、今までもこれからもそんなことで場合によっては不動産バブルが起こる国なのだ
親の世代の老人向け産業が今働き盛りの団塊ジュニァー世代の家族を養ってることになっている
もっと極端に言えば親の世代の長寿か最後の家庭崩壊を期待している???
他の誰かも言っていた
今現役のテレビプロデューサーやディレクターは時代劇や家族をテーマのドラマを作れる力がない
もしあってもパロディとしてしか見ていない・・と言っていた
そう言われれば家族のいない家のコマーシャルが盛んになってきた気がする
身近なところでも隠居が死語になって、跡取りも死語になる最後は家族だろう
この話まだ続けます(30.5.24)
(写真註:相続は相続者の権利と思うのは誤解である)
相続は相続者(子供ら)の権利だと誤解している人が多い
私有財産は財産所有者の意図があって初めて人に譲ることが出来る
その第一が略取で、第二が詐欺で、第三が売買で、第四が贈与である
第五があれば相続ということになる
これだけが血縁関係を要件として譲渡されることになる
しかし、血縁関係?のないのが配偶者である
配偶者に関して結えば財産は二人で作られたものであるからだ
子に関していえば、子に残してやれるものにして譲りたいのは親の生存本能である
有形・無形もしくは動産・不動産の区別はない、資産はその一つで他人が侵すことのできないものである
その財産には親の親、そのまた親、そのまた親から譲られた財産を含む
何代か遡れば略取から始まっているかもしれないが、それを資産という
資産は家族にとっての共有財産だ
そこに家族という定義が必要なのだ
第一項で書いた30年も顔を出さなかった孫に相続権があるのはそのことによる
家族でないともいえるし、離れていたからとて家族だともいえる
その位置を決めるのは故人である
たとえ、故人がそのことを忘れていたからと言っても、故人にとっての家族であるのは明確である
その孫が生まれた時には故人にも祝福されたのだから・・
だが、叔父にとって30年も顔を出さなかった甥は家族ではなくもちろん相続人ではない
利害が一致する筈は絶対にない
「何も言わず亡くなった故人にとっての家族」と
「何も言わずに生きてた時の故人にとっての家族」とは既に家族の定義が違うのだ
それを少しでも近づけることが出来るとしたらそれは遺言になる
が、しかし、それもまた残された家族それぞれの考える家族の定義とは合致しないこととなる
被相続人も遺言の権利だけあると知るべきである
それが実行されるかどうかを知る権利はないとも知るべきである
実行されなかった遺言ではそもそも成仏できない?
いやその頃には既に仏になっていてそんな遺言状にこだわっていないと閻魔が言っていた
この話まだ続けます(30.5.25)
(写真註:遺言か遺書か)
遺言はあくまでも法律によって定められた方式に従っていなければならない
普通は「普通遺言」である
自筆で書く遺言と公正証書で書く遺言がある
公正証書は公証人という厳格な人が証人になってくれる
公証人役場というものを知っておく必要はある
自筆の遺言状が出てきたからといって開封してはならない
そのまま、家庭裁判所に持って行って預けて現認を受けなければ無効になる
ただ、公正証書なら現認は必要ない、開封しても有効である
遺言状が複数あると、全ての遺言状の現認を受けなければならない
これが極めて手間な話である
現認とは遺言状の存在を全ての相続人に知らせることだからだ
ほとんど相続協議が始まっていることになる
安物のドラマのように、それぞれが自分に都合の良い遺言を持ってきて相続争いをすることはない
あくまでも日付の一番新しい有効な遺言状だけが遺言なのだ
娘たちが病院へ見舞いに来る日数でたびたび遺言状を書き換えていた人を知っている
そんなことでなくとも・・我ら兄弟姉妹にも同じようなものだ
妹は親が末っ子を最後まで均等に扱わなかったと言って哀しんだ
また姉はこの遺言状は父の本心と違うと言った
開封した父の遺言状にはきょうだい仲良く、「姉・妹達にはその都度出来るだけのことをしてやっているから気にするな」と書いてあった
その父の気持ちを含んで小生が相続協議書を作成した
ほとんど場合全員の納得はあり得ないものだとは思った
しかし、一番割り切れない思いをしたのは最後まで父の病気の介護にあたってくれた小生の妻である
遺言はそのことにはふれていないし、姉も妹も最後までそのことへの感謝は口にしなかった
書くならもっと記憶に残る刺激的なことをと、思う
ただ、兄弟仲良くという父の気持ちは心にしみこんでくるが、遺言としての意義はない
この頃はそれももういいのではないだろうかと思う
葬儀の費用の支払いや香典の開示で兄弟のもめ事に巻き込まれることが増えてきたと葬儀屋も言う
親が亡くなった時が兄弟の分かれ目だと思う
親がいなければ帰るところもないし、孫から見ても家族がいなくなってしまうのだから
どうしても遺言したいなら、弁護士なり公証役場なりに足を運ぶことだ
そうでないと人生最後の遺言が無効だったり・・反対のことになったりする
遺言に最後の説教を書いたうちの父親が正しかったのかもしれない
法律用語では遺言は「いごん」と発音する
遺言(いごん)と遺書(いしょ)とは違う、遺書には書式がない
小生のように毎日ブログで遺書(のつもりで)を書いていけばいいのだ
ということでこのシリーズまだ続く(30.5.27)
(写真註:花の色が緑から色々変化するので七変化と呼ばれる)
人は腹を減らしているときはただの肉食動物だ
テレビの相続話に戻る
死んだ妹の子には死んだ妹の亭主がいる
その亭主の稼ぎを補うことでもある
し、も一度母親のなくなった時に同じことが起きる
思えば、息子にも妻がおり、娘には夫もいる、それぞれに不都合な子がいたりする
そんな中で、残された母親の面倒を見ることでまたもめるだろう
いい顔していたら間違いなくそれが負担になってくる
いい顔しなくとも取り分が変わらないのならいい顔など無用である
親が亡くなる頃に都合のいい暮らしをしている人は一人もいないだろう
相続の問題をきっちりわきまえるにはそれなりの教養もいる
人は腹を減らしているときはただの肉食動物だ
追いかけて行って襲っても食うし死骸も食う
相続の味を一度覚えるとこれほど楽な獲物はないことに気づくだろう
満腹の時と人が変わるのを肉食動物という
しかも、厄介なのは満腹の時でも都合よく自己肯定の論理を構成できる草食性も併せ持っていることである
変な遺言書が出てきたらそこから解決していかなければならないことになる
故人に裏切られる人もいるだろう
話し合いが決裂した方がもらえる額が多くなるというときにそれで辛抱する人はいない
世間の一般的なセオリーで訴訟になるのは額の多少ではなくこの自己肯定の論理(これを人情という)である
合わせて長い人生は努力や誠意こそ金額で報われるものだと信じているのだから
肉食動物の分け前は獲物を得るための貢献度に比例する
誰かより分け前が少ないことだけが辛抱たまらないのだ
それが肉食の論理である
そこまで行ったら、相続関係人皆の同意が得られるということはほとんど無理なことである
結局勝っても負けても判決が出たころには誰も故人の墓にすら参ってくれないこと・・も世の常である
それをまた生きているうちにしてしまうのが時に世間の話題になっている
(30.5.29)
(写真註:アジサイは実を結ばない)
我らサラリーマン、何もないところからやっと家一軒持てるようになった
家族はあったが、今は子供たちが同じように自分の家をこしらえている
小生はツバメ派である
ツバメはオスメス共同で巣作りすることで番になる
どちらかに事故がない限り添い遂げる
代々同じことをしていると思えばいい
小生は今は年金もあるがアルバイトの仕事もある
70歳を過ぎても働いてる人の方が多いし、尊敬できる
今となってはである
親の面倒を十分見ることは出来なかったが、そのかわり親に面倒はかけなかった
そんな生き方を選択したつもりだが、それはあくまで自分の都合であった
そのまま置き換えれば子供に子も供らの都合がある
空腹であろうとなかろうと親からもらえるものがあるなら拒む必要はない
息子が先に亡くなった時、小生ら夫婦がともに息子の相続人だったけど
21歳の息子には財産がなかった
サラ金の借金を遠くまで行って返済したくらいだ
後の方になって・・死亡だったら借金は返さなくともよいと教えられた
本人が死亡しても取りはぐれないためのサラ金業者が保険をかけている
不自然な相続は取りはぐれることが多い、だから保険制度があるともいえる
遊び好きの悪ついでに・・そんなことなら子供の一人も残してくれてもよかったと今は思っている
ひょっとしたらと・・と思う話があったけれど・・そこまで気が回らない
あくまでも仮にではあるが・・いい嫁になる前に、好きな男を失った人が一人はいたかもしれない
あくまでも仮定であるが、それを私たちに言えなかった、としたら私たちも未熟だったのかもしれない
20代は未熟である、人生をテレビドラマでしか知らない
今は子供が大人になって始めて自分も大人になれるのだ
あれから20年の歳月がまた流れて・・あれが我が家が滅ぶ前兆だったのだと気付いた
それも仕方のないことだった
(30.5.31)
(写真註:紫陽花や身を持ち崩す庵の主(永井荷風))
新しい家族を作ろうとした我ら世代は結局は家族を壊してしまったのではないだろうか
家族は本来の最小単位だが
家族は最大の群れだった
家族が皆一緒に暮らせることが一番の幸せである
原始の時代からの本能の一つだろう
だが実際はそうでなかったこともまた多い
社会生活を行うにつれ家族の単位は小さくなっていく
人間に仕事の歴史はもはや3千年になる
家族を守っていくのは男の仕事だった
守るために戦う為に仕方なく離れ離れになったことの大きな不安も
やがて繰り返しの学習で克服できる社会になってきた
家族は肉体の痛みを共有するものだ
しかし離れたとたんに痛みは半減する
家族に助けられなかった我ら世代は家族として助ける方法を学習していない
家族を壊す仕組みばかりを作ってしまったために
家族を離れたゆえに生きていけない多くの人たちを作ってしまった
家族の単位は限りなく小さくなってやがて個になっていく
ふがいなく、なさけなく・・
まだ小さい方が暮らしやすかったと誤解している
社会は家族の代わりはしてくれない
しかしもう、戻ることはないだろう
(30.1.15)
(写真註:嫁が来ない)
家内の友人が来ていた
話が佳境に入った頃に小生が帰ってきて一緒にビールを飲むことになった
再婚したいという
理由は・・嫁が来ないという
嫁が来ない?男の話ではない
相手はというと、これからだという
何だ・・離婚してから独り暮らしが3年になると言う
子供も孫もあっちへついてしまった、と言う
「あっちへつくならもう来なくていい」と息子に言うたら
嫁が来ない
そして息子も孫も来なくなったと言う
罪なく家を出たのに子供たちが味方してくれない
男の子はと信じるものがあったのに・・そのことがむなしかった
嫁が決めることに夫(息子)や子供(孫)が唯々諾々と従う
そんな力が嫁にあったのだろうか・・と今更思い知らされたという
そんな主旨だ
相談に来ていたわけではないので答えは要らない
仕事もしてないみたいだし食っていけてるのだろうか
ならばまあ再婚には賛成である
でも、孫もおるわけだし、親子の縁は切りにくい
将来のもめ事も無くしておく必要もある
そういっても大金持ちに当たる確率は極めて低いし
もともと、男と女が一緒に暮らすとなれば賢さは必須だ
一時の寂しさだけでは禍根を残す
小生の歳の差艶福持論を披露したくなったが・・
年上の男性を意識した式は女性には失礼な式でもある
歳の差が艶福だというのは偏った考え方である
互いの利害が一致することが世間の定理ではあるが
どちらかが幸せですということだって互いの幸せでもあるのである
若い人には分からないかもしれないけど
この熟女にもまだわからないだろう
離婚は最後に一人で死ぬことに等しい
人生など所詮、打算、・・と覚悟なのだよ
それでも"万事塞翁が馬"とも言う
女性を相手にすると・・歯切れの悪い話である
(29.4.18)
(写真註:ピンクのアジサイの花言葉は元気な女性といわれる。母の日にもむいている)
前項「嫁が来ない」もう一度ことわっておくが結婚相手の嫁ではない
息子の配偶者のことである
前項で出演願った家内の友人は夫婦の期待を息子や息子の嫁にかぶせて期待しすぎている
それでも孫はひょっとしたら自分で来れるようになったら来てくれるかもしれない
それまでは母親の手の中にあるのだから仕方がない
最期の期待まで打ち壊してやる必要はない、だからそれ以上のことはいう必要はない
元気なうちは息子も嫁も来てもらわなくてもいいじゃないか、と言うと、倒れた時が心配だという
それはいくら心配しても心配しすぎることはないが、元気な時に来ないものが倒れた時に来るはずがないではないか
亭主の老後をほって、亭主の親の面倒を見る前に離婚して、その上で、息子や嫁に面倒見てもらえる話はどだい無理な話だ
息子の嫁に離婚を勧めるようなものである
もちろん、孫が遊びに来ない愚痴を言いに来た家内の友人にそこまでは言えない
そこまで行けばまた「吾亦紅」の唄になってくる
夫婦で出来ないことは一人なったらもっと出来ないものなのだ
看取りというのがキーワードだ
看取りとは死期に向かって家族の看護・介護を言う、その看取り経験が日本でなくなっていると指摘されている
病院は看護であり施設は介護は出来る、しかし家庭は今何も出来ない
看取り放棄の嫁と姑は家族の定義に入っていない
看取りとは家族の話である、どこで死ぬかは家族の問題である
"自宅や施設で"死にたいと思うなら、"家族の介護"がキーワードだろう
現実には気の利いた介護を受けるチャンスは施設しかなく、結局は施設で・・寂しくということになる
せめて自宅や施設で4割の方が看取られるようにしたいという政府のスローガンは
他でもなく既に医療体制が限界に来ているということを言っているに過ぎない
家族を壊してきて、そのための家族をつくるというのは大きな矛盾である
・・・・どこで死にたいかと言われても・・困る、のである
10年ほど昔に大きなアンケート調査に協力し、アンケートの集計結果が送られてきた
将来の一番の不安は、病気であり介護されることである
しからば誰に介護されるのに抵抗があるかということだ
女性がもっとも高い率で抵抗感があるのは息子の配偶者いわゆる嫁であった
独身・離婚・死別を含めての50才〜80才の9割の人がそう回答している
「人間の欲は自分を計算に入れない?」と言われながらもある程度覚悟はしているようだ
男性(老人に限らず)はそのとばっちりを食らってるようなところもあるからである
(30.6.5)
(写真註:看取り率)
ちょこっとまた吾亦紅(われもこう)の唄に帰る
この唄、"いまさら離婚"ということが裏のテーマになっている
またその裏には母親を看取れなかったことの悔いがある
人間が死ぬのはほぼ病気だから、看取りとは病人のそばにいて死期まで見守り世話をすることである
危篤だと言ってその時だけ飛んでくることではない、それは死に目という
いずれにしろ一番多いのは、病院だろう・・
病院が8割、自宅や老人施設が約2割である
唄の母も一人病院で寂しく亡くなった・・一番多い・・国の統計である
どこで死にたいかって?そんなこと聞かんといてーや
現在の状況でこれぐらいだとすればあと10〜20年後を予定している我らの時代はどうなっているのだろうか
不安になるのは当然である
人生、旅先の路傍もあれば、刑務所だってあり得る
自宅だけどいつまでも見つからなかったということも・・
その中で病院での死を家族に看取られたとしたら御の字だろう
国は何とか20年後には自宅や老人施設での死を、現在の2割を4割ぐらいに引き上げたいと目標を定めている
だがこれは場合によってはあきらめる他ないような数値だ
もう数年でやってくる団塊世代の後期高齢者化・・
病院が一杯なのにその病院が在宅医療体制の充実を図るには遅すぎた
身寄りなき余りに多くの老人に対して病床や介護人員の不足がやってくる
20年後なら達成できるかもしれないとしたら
・・それは団塊の波が行ってしまってからのことであろう
夫婦でこの問題を考えると・・
後になるか先になるか、それによって違ってくるのではないかと実感している
先に死にたいとは必ずしも思わないが・・、後になってしまえば多くのことをあきらめざるを得ない
自宅で(嫌われながらも)看取られて死ねるなんて幸せは僥倖と言うに等しい
自分で歩いて姥捨て山に登っていく時代がやってきたのである
いずれにしても自分のことである
率とか割合ではない
地域差も他人のことも関係ない
はっきり言えば0か100かの世界である
今の50代から70代のこの後の看取り率は一度限りなく0に近づくと考えていた方がいい
(30.6.3)
(写真註:アジサイはガクアジサイの両性花が全て装飾花に変化した園芸種でもある)
小生の父親は難病の一つパーキンソン病を患った
発病から10年で、その後は色々な症状が出てきた
薬のせいか気分にも波があり、幻覚・妄想が続いた
家族がそれを病気だときちっと認識するのは相当な知識がいる
大学病院に通ったが薬をくれるだけだったし、老人保健施設にも拒否された
時にデーサービスにも行ったが、いわれなく素人リハビリ体操ばかりさせられた
皆と一緒に笑わない、皆と一緒に手を動かさないと言って嫌われた
悲しいことに父親の尊厳を守り得たかどうか、思えばつらいこと毎日だった
介護保険がスタートする前の何年かは夜明け前の暗さだった
多くの病院がフロアー単位で空きベットを作った
3か月以上の入院はさせてもらえず、病院を転々としていた
新しい病院に落ち着いたその日から次の病院を探すのが家族の仕事だった
介護保険の制度は平成12年(2000)4月から始まった
病院は病状は安定している(治らない病気)と言い、老人保健施設は難病の患者の受け入れ態勢はとれないという
幻聴・妄想も病気なのだ
安定しているなんて知識は家族にある筈がない
認知症と一緒なのだ、そのこと自体が病気なのに・・
認知症だって当時はただのボケ老人と言った
病気の治癒ではなく介護の問題に切り替えていく時期だったのだろう
やっとの思いで長期療養型の病院にたどり着いた
病院だから保険も効くけれどホテル並みの入院料を取られた
父は自分の蓄えを全て使うことを納得して、心も穏やかに入院できると久しぶりににこにこしていたけど・・
暫くして院内感染で肺炎を患った
家族と病院あげて敬老の日のお祝い行事、医者も看護婦も一番手薄な日に危篤になって次の日に亡くなった
パーキンソン病で死んだのではない、やはり肺炎であった
家族にとっても息をつく間もなく亡くなった
介護保険制度がスタートする前の年だった
つまらないことを考えた
国が作ってくれる制度というのはいつもよくできている
だがしかし、制度の隙間に入ってしまう悲惨さはいつまでも残っている
病院は回転率を上げることが一番の経営であると今でも信じている筈だ
夜明け前と夜が明けてもそこのところは変わっていない気がする
そしてまだ医療と介護の区別は相変わらず曖昧である
老人、病気、貧困、介護にはいつでも悪の論理が入りこんでくる世の中になってきている
病人にとって生きるということは生き抜くということである
そんな分かり切ったことを制度に求めていくことは難しい
10年間以上の父親の病気は我々家族にも辛いことだった
老人保健施設や病院がなかったら、こちらも倒れていただろう
思えば、もうその時には自宅で看取るなんてことは出来ようもなかった
父親が発病した年令になってきた
これから毎日自分自身で考えておくべきことの一つである
(30.6.4)
(写真註:生命保険という手もある)
保険と言えば生命保険がある
保険金は相続の対象外である
親の遺産を当てにするのなら、親に生命保険をかけておくのが一番確実だろう
後ろめたい気がするならやめとけばいい
親の了解でなおかつ多額の掛け金を自分で払うなら問題はない
何も残してやれるものがないので、と言って自分の好きな者を受取人にする
テレビコマーシャルが盛んにおこなわれている
生命保険の効用が広がっていると認識すべきだ
"幾つになっても入れます、生涯掛け金は変わりません・・云々"
とはこのことである
例えば掛け金が相当な額になったとしても考え方から言えば生前贈与と同じことである
も一度言えば、力があればその掛け金を自分(受取人)で払えばいい
相続人であってもそうでなくても相続の公平さを妨げない
だからこそ、被相続人(親)の方が積極的にならなければならない
生命保険というのは残されたものの傷を癒すものである
それも確実な絆である
世の中では生命保険で借金(負の遺産)を返す人も現実にいる
保険金詐欺ではないし、今回の場合は自殺まで急がす必要はない
わずかな遺産の分配方法で悩んだり、わずかな遺産の分配で残された人との絆を壊したくないなら・・・である
生命保険の平和利用である
それでなくば相続問題から綺麗に逃れる手はない、少なくとも遺言状より効き目は確かである
(30.6.6)
(写真註:京都地方気象台が観測しているアジサイの開花の平年値は6月15日である)
昔テレビドラマで「渡る世間は鬼ばかり」というのがあった
視聴率が高かった
テレビドラマは「〇〇日曜劇場」や「男はつらいよ」のように人情の機微を優しく表現するものとばかり思っていたからびっくりした
確かに出演者(役柄)が皆鬼だった
全員が思ってることをストレートに遠慮なく語るのだ
皆が心の底に何もためずに感情を出しまくるのだ
このドラマが嫌いだった人の気持ちが分かる
これが自分の家族から出た言葉だったら・・と思えば見ていられない
このドラマが好きだという人の気持ちも分かる
ドラマのように一度や二度は辛抱している自分の本心を口にしてみたいと思う
それが高視聴率の理由だと、あるいは今までの常識を打ち破ったと思えば理解できる
このドラマが長く続いたことには作者なりの工夫があるのだろう
全ての役が老いも若きも男女ともに同じ性格だということである
もっと言えば、皆が人をいじめることが好きで、いじめられることに強いということだ
そして、皆が自分と同じ性格だと確信していることだ
だが、それは未だかって地球上に存在したことのない事例だ
確かに家族でもそういう観点でとらえようとする人もいるだろう
それを嫁と姑の確執ととらえる人はそもそも人が嫌いな人だろう
またそれは家族と他人を同じ枠で考える人だろう
世の中には人が嫌いな人と人が好きな人といる
家族を思うように人に接することを惻隠の情という
相手をおもんばかってやることだ
言ったらいけないことを言わない気持ちだ
言ったらいけないことを言わせない気持ちだ
赤子が泣いてそれが何を訴えてるのか分からない母親はいないはずだ
赤子は泣く以外に表現できないし、母親の都合を分からない
それが子供になり大人になれば分かるように育てるのだ
親の気持ちが分かるほどの大人になるためには年月がかかる
皆が赤子のように自分勝手に喚きだせば家族ではない
が、ドラマだったらそれも可能かもしれない
もう、終わってる家族はセリフがなくてドラマにならないことだけは言える
ぼちぼちこの吾亦紅シリーズも終わりかけである(30.6.15)
(写真註:家族が一番知らない)
故人が生きていたということは理解できる
でも、そもそも、家族こそが一番故人のことを知っていない
それを知っている人の話を聞くなら、それはそれで人を偲ぶことは出来る
ひょっといたらお通夜の意味はそんなところにあったのかもしれない
それでも人の一生は長すぎる
10年も20年も病気してたら、おかしくなって家族に迷惑かけたことだけ人しか思い出せない
とても皆が言うほど厳しかった人とはとても思えない・・なんてことになる
サラリーマンだって金貸しだって仕事の成果は評価されるが仕事の癖は正しく評価されることはない
そういう癖の悪さがあると葬儀の参列者の一つの楽しみになることもある
が、昔ばなしは要らないと言われるかもしれない
葬儀は誰のためにあるのかと言えば、残された者のためにあった時代もある
喪主の社会的地位が葬儀を作る
それでいいのだが、時に参列者が困ることもある訳である
自分の親がどんな親だったのか説明できない
テレビドラマのように単純でない、しかしドラマほど複雑でもない
笑い話だけどただの女好きだったと言われるほど単純な生き方をした人は存在しない
家族葬ではもはやそれも必要ない
だから親は単に親である、子は単に子である
家族が集まって遺品整理の話ばかりしておけばいい
それは世の常、凡人も別に困るほどのことではない
死人に個性を感じるのはやはり家族だけかもしれない
人の人生は毀誉褒貶である
世の中(現世)というものはでは人間がみんな集まって出来るだけ都合よいように作ったものである
従って、世間は右と左、上と下、白と黒、・・本物と偽物、正と邪、・・似たものばかりで自分と他人の区別も分からない
警察だって裁判所だって裁けないことが多すぎる
世間のことを世間が裁くのが世間たるゆえんであるどっちみち地獄へ行くのは一人だ
そもそも地獄は現世の資産や地位を認めてくれない、極端に公平な世界だ
閻魔だけが評価する?誰もが通らなければならないのが地獄の門である
絶対の地獄の掟である
その時こそ言いたいことを言えばいい、現世での嘘は通じない
地獄でこそ始めて裁かれ、また地獄で始めて救われる人もいるだろう
そのことを知っているものだけが人生の英雄である
死後のことは天に任せばいいし、自分の身は閻魔に任せるしかない
先に亡くなった分だけ仏に近づける?
せめて年とってから罪はしたくないよな、ご同輩
今回で吾亦紅シリーズを一応終える
18編に付き合ってくれた人およびその家族の老前・老中・老後・往生・後生に少しでも幸あれと祈る
(30.6.17)