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路地ろぐ(ブログ編)第3章「家族の様」
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路地ろぐ(ブログ編)

新切鰺(しんぎれあじ)の京都巷談。新切鰺は都市漂泊。舌足らずの言いっぱなしブログです。京都暮らしの横断面図は不都合事情。家族編の第3章です。様々な家族の姿を通して家族を考えます。この章は常時追加現在進行形。31.4.25


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路地ろぐ(ブログ編)第3章「家族の様」


no.70「バチか祟りか怨霊か?」(31.4.22)
no.69「草餅の頃」(31.4.12)
no.68「灰色のハート(後)」(31.4.11)
no.67「灰色のハート(中)」(31.4.10)
no.66「灰色のハート(前)」(31.4.10)
no.65「仕合せになりたい(後)」(31.4.10)
no.64「仕合せになりたい(前)」(31.4.7)
no.63「愛を手に入れる方法」(31.4.6)
no.62「(続々)夫婦の歳の差は縮まらない」(31.3.29)
no.61「20インチの自転車」(31.3.28)
no.60「この世のことも分からないけれど」(31.3.21)
no.59「叱り方が分からない?」(31.3.18)
no.58「雨水(うすい)の頃」(30.2.19)
no.57「(続)夫婦の歳の差は縮まらない(31.1.18)
no.56「夫婦の歳の差は縮まらない(31.1.17)
no.55「京都の自転車/冷蔵庫のある暮らし」(30.10.15)
no.54「ある骨董商(後)」(30.10.1)
no.53「ある骨董商(前)」(30.9.30)
no.52「親を超えられる?」(30.9.22)
no.51「老人化が始まる日」(30.8.11)
no.50「マスオさんの夢が見えない」(30.6.19)

no.50マスオさんの夢が見えない

家族編は投稿時期の季節の花を楽しんでもらいます

(写真註:家族編は投稿時期の季節の花を楽しんでもらいます)


アニメ「サザエさん」の主役はマスオさんである、と言うと一応異論が出る
いや波平だという人もいるし、やっぱりカツオだという人もいる
サザエは所詮狂言回しである、だから、そんなに大した女には作っていない
新しい家族のあり方として”妻の家族と同居する”というパターンを作った
そういう風潮を先取りしたのがアニメ番組としての成功の基だと思っている
大阪育ちのマスオさんが一度も大阪弁を語らない
もちろん、博多育ちの波平さんやサザエも博多弁を語らない
東京に出てきた途端に東京に帰化している
徹底的に家族平和を求める家族を描くようになったのはアニメのスポンサー東芝の戦略であった

数十年も前に始った長谷川町子女史の「サザエさん」という風俗(風刺も)漫画は朝日新聞の販売促進であった
女性原理で家庭を作っていくとこうなりますということが受けた訳である

家でも会社でも戦わない論理は平和主義の女性原理から来たものである
日本の女性は昔からそんなこと折込済みだったのだ
男どもは甘えて威張ってればいいのに、急に理解のあるようなことを言う
そんな男の相手をすることは日本女性にとって物足らないことなのに、気の利いた女性は決して言わない
その役をしているのがマスオさんである
ただ、マスオさんは磯野家ではない、磯野家の平和には貢献するが、それでは大阪人フグ田家の明日が見えない
ただ、家でもう一人の母親みたいな男の背中ばかり見せられたタラちゃんは不幸である
かくして男性原理は廃れ、男も女も女性原理的平和主義と平等主義で生きていくことになる


ならばと言うことで波平さんを前時代のがんこ親父に作ろうとしている
が、作中、波平さん自体が出来が悪く軟弱である
会社でやったことのない頑固おやじを家族にやらしてもらうことこそ軟弱の極まりである
フネさんは絶対に主役にならないことを信条としている
だから、家庭調和と言うのです
そのかわり日本女性はこんなものでいいのです、とばかり言っている
が、小生は悲しい、それでは親を超えられるいい女性が育たないのだ

言いかえれば白物家電の世界です
日本の技術史では、洗濯機も冷蔵庫も必要に応じて出来て来たことを強調しているが、電化製品を家庭に普及させるのは別の戦略がいる
家族は家電製品の進歩に合わせて進化していきましょうねと言っている
東芝ゆえではない、全ての国民がそのことに慣らされた
電機メーカー東芝は日本髄一の原子力メーカーでもあった
原子力メーカーと原作の持っている風刺と言うものが両方とも消えてしまった気がするのだが・・アニメに対しては言い過ぎだろう
都市伝説の一つにマスオさんの浮気の相手は〇〇アワビという若い女性らしい
そんな話がテレビに出てきたら面白いね
♪そう、はじめて自分を生きる・・(第2章吾亦紅編を参照してください)
そこまでは期待できないけど・・
東芝がスポンサーを下りてどう変わるかが興味深いのも事実だ
(30.6.19)※日付はブログとして書いた日である、このページの記事の掲載とは関係ない



no.51老人化が始まる日

ヒマワリも盛りの日は短い

(写真註:ヒマワリも盛りの日は短い)


小生の親父は今年で101年になる
親父が70歳の頃、小生が40歳ぐらいの時である
親父がパーキンソン病を宣告された
その時まで意識していなかった親の老後を感じた
一気に我が家族も老人化に巻き込まれたという気がした
82歳で亡くなった・・それから20回近くお盆を迎えている

誰かが言っていた
老人化と我々が言う場合には3っつのパターンがあると
一つ、自分が年とること
二つ、連れ合いが年とること
そして三つ、親が年とること
親が年をとった時に老人化のすべの課題が身近になってくる


あれから30年、一世代進んで今度は私が老人になった
当時老人化はまだ家族にとっての問題だった
その間にゴールドプラン(1989年)や公的介護保険制度(1997年)がスタートした

今は、社会全体での問題となりつつある
それは子供や家族に頼らなくてもやっていける
本人の心がけ次第の老後となったというわけなのだ
ところがである、いずれ老人のための施設にも限りある

ピークに合わせた施設整備は必ず過剰なものとしてあとに負債が残る
老人世代がヘルパー世代より人口が多いということになれば
結局は家庭での自力介護に戻らなければならなくなっているようだ

戻るべき家庭があればいいが、配偶者すでになく・・子供とはなにかと疎遠では・・
自分の老人化を子や孫の老人化にすることが出来ない
いずれどこかの大部屋で一人寂しく生きていくしかなくなってしまう
もうその道へ向かって歩いている
マイホーム主義の我らの世代だった
それが最後の矜持かもしれないが・・
それがマイホーム主義のつけ払いだと気付くのはこれからだと思う

(30.8.11)



no.52親を超えられる?

アザミのトゲ

(写真註:アザミのトゲ)


少し前”老後の暮らし方に結婚がある”と言ってある女性作家が結婚した
"60代になると老後しかない"と言ってるようではあるが、逆にまだ"現役"だと言ってるようでもある
ただし、この場合の老後とは明確に定義されたものではなく、"やがて来る"と言う意味に近い

誰でも老いる限り老いて後の老後は必ずやってくるわけである
老後は多様である
それよりも貧富の差の方が気になる
人によっては若い時のままであり
人によっては転落している
他人から見ればシルバー一色に見えるかもしれないが、赤や黄や青やもっと多色である

60代になって初婚だとすれば最初から枯れるわけにはいかない
ゆったりとした老後を得るためには老後への蓄えの一つとして結婚もある
老後という言葉を使える人はそれだけでも仕合せである
老いるということを語れるということである
老人化の過程を一つの人生と考えることが出来ているということだろう
老後が人生の暇つぶしだったり時間つぶしだったら人生が不甲斐ないことになってしまう

と、思いませんか
鯵庵(30.8.12)



no.53ある骨董商(前)

(写真註:コスモスはメキシコ原産、ヨーロッパから明治に日本に入ってきたが日本に馴染んでいる)


小生が長くお世話になったアマチュア写真のリーダーY氏は中年時分から骨董を始めたようだ
といっても趣味ではない、商いとしてである
そういうことで写真の目利きは別としても骨董を見る目は確からしい
骨董というとすぐにテレビのなんでも鑑定団″を思う人も多いが、ああいう掘り出し物には普通お目にかかれることはない
もうこの時代になって世に隠れていた本物がそう簡単に現れることはないというのが常識らしい
博物館の学芸員とは違って町の骨董商はコレクションの相場を作っていくこと、
わかりやすく言えば、高い目の値をつけるのが仕事で、物と相場を動かして・・やっと“なんぼ”の世界らしい

それでも、いいものはY氏が見てやると、その“いいもの”が、「買うてくれ、買うてくれ」と訴えるように言うらしい
本人の弁である
そんなこと言えば世間ではごっつい金額を思うが、Y氏のレベルは2〜3万円くらいらしい
声を聞いたY氏は迷わず買う、その茶碗は5万円位できっちり欲しい人の手元に届いて喜んでもらえる、そういう図式だ
倍ほどの値打ちがあるのに半分の値しか付いてないので茶碗がY氏に泣きついているのである
騙されたことはあるが騙したことはないというのが人生の達人Y骨董商の身上だ
数万円の茶碗の売り買いが出来るというのは手堅いながら上級骨董商の部類らしい

(この項続く)
鯵庵(30.9.30)



no.54ある骨董商(後)

(写真註:シュウメイギク、京都では貴船菊といわれたりする)


>定年の無い仕事だから今も適当に骨董商をしているが、実は70才目前の男やもめだった
それがあろうことに、再婚することとなった
まあまあ、それはいいけどと思う間に、実はと語る・・40代の再婚相手に2人の娘さんがおり、″連れ子″で面倒見ることになったというわけだ
下の娘さんがまだ高校生で、どうしてもこの家に一部屋与えなければならず、部屋が足らなくなった
我ら写真会がその部屋を使っている、乙女の部屋と供用するわけにはいかんと言うわけだ、当たり前の話でもある
写真もやめて何よりも新しい(孫みたいな)娘さんを立派な女性に育てることに最後(?)の情熱を傾けると言われたら、我らも応援せざるよ得ない
彼なら、今からでも当のお相手だけでなく、かの高校生乙女にも人生の幸せの一端の情を感じさせてやれるに違いない
かくしてY氏は再度、生活の人として骨董商に専心し、写真クラブは瓦解することとなった
趣味より生きることが大事なのは当たり前である

沢山のことを教えてもらった
その中で、一つ、″趣味はあくまでも趣味である、生活の糧にはならない、人生と引き換えてはならない、必要なときにはいつでもやめること″という

母と娘は縁があってY氏に拾われた
でも、女の血はY氏に気にすることなく母と娘で継いでいけばいい
Y氏はやもめ暮らしとはいいながら、子供も孫もいる
やもめも趣味だったのかもしれないし、ひょっとしたら母娘の面倒を見ることも・・???
我らが真似をする必要はない
その時どうするかを自分で決められる力を持っていることが大事なのだ

Y氏は"踊る阿呆"になろうと思っているのだ
私もそれが男の性(さが)だと思っている

あれから5年たったが、伝え聞く限りY氏はまだ骨董商に励んでるようだ
(30.10.1)



no.55冷蔵庫のある暮らし/京都の自転車

夏早くから咲く菊が多くなった

(写真註:夏早くから咲く菊が多くなった)


昭和の頃
子供も夏休みは氷屋を待つのが日課だった
氷屋にしても午前中の仕事である
むしろをかけた氷も暑い日には融けだす
氷のある生活といえば、それまで高貴な方にしか味わえないものだったのだから
明治になって製氷技術が進んだことの恩恵であり
主婦にとってうれしいことだったに違いない

父は家で冷えたビールが飲めた
私ら子供にとってはスイカやトマトの味である
トマトもモモもリヤカーで売りに来ていた
ケツがまだ青くてごつごつしたトマトが記憶に残っている
都市暮らしをしていたが日本の農村がすぐ近くにある生活だった
村から出てきた都市住民の多くが農村を近いものと感じていた


トマトを冷やして食わせてくれた父母がまだそこにいた
これも田舎から来た我が母の思い出の一つである
(30.10.15)



no.56夫婦の歳の差は縮まらない

菊と酒

(写真註:菊と酒は艶福を表す)


再放送「剣客商売」の秋山小兵衛のことが頭に残っていたからかもしれない
漂々と生きる老剣客秋山小兵衛は60歳と少し、連れ合いのお春は20歳と少し
40歳の歳の差がある
その代わり男も60歳だと墓場が待っていたともいえる
しかも、それでは親子が逆転してしまう

今年もよろしくと媼(おうな)役の家内が言う
70歳になった翁(おきな)役の小生、こちらこそ云々・・・
正月だから、昼酒をいただいて昼寝した
夢を見たから、初夢だったのかもしれない
自分が再婚する夢である
届をするのに相手の年令を算式で書けと役所が言うのだ
3っつ違いだと家内が横から言う
そんなおかしいことはない
家内と再婚する筈がない、それなら初夢ではなく悪夢になる

夢の中で作った方程式である
相手の年令=自分の年令÷2+7でどうだ
と言った
仮に50歳なら相手は32歳、年の差18歳である
60歳なら相手は37歳、年の差23歳である
70歳なら相手は42歳、年の差28歳、となる計算だ
14歳の時に同じ歳の女性に恋をして(標準的初恋・・歳の差0歳)
人生まあそれなり成功したとして50歳で後妻を貰うとして(歳の差18歳)
式の根拠はそれを直線で引いただけである
歳の差はあくまでも人生を共にできる可能性の中での最大値である

こちらには長い間かけてきた年金という宝物がある
芸能人感覚で行けばこれぐらいの歳の差贅沢ではない・・と
夢の中で区役所の窓口の閻魔さんみたいな顔をした人に説明している
も一度ことわっておくが夢の話である
しかも再婚の話である
仮に名付けて、再婚艶福式とでも言おうか
夢と違ってもう、小生にはチャンスがない
(31.1.18)




no.57(続)夫婦の歳の差は縮まらない

小さな実、ヒヨドリジョウゴという

(写真註:小さな実、ヒヨドリジョウゴという)


剣客商売の話をも少し
秋山小兵衛は小兵ながら何事も達者である、しかし剣客である限り明日の命は分からない
後妻のおはるは既に女である、40歳も年下だけどその覚悟はできている
だがしかし、小兵衛は93歳まで生きた
何とおはるは48歳で亡くなったが、小兵衛より先に亡くなった
という

前編に戻る・・夢とは言えど50歳で18歳の歳の差は一般人には現実的ではない
目が覚めて改めて前編の式を補正した
相手の年令=(自分の年令÷2+15)にした

これなら20歳で相手の年令25歳、歳の差マイナス5歳
30歳なら30歳、歳の差0歳
40歳なら35歳、歳の差5歳
60歳なら45歳、歳の差15歳
男性に当てはめると20歳代には年上の女性に憧れる現実にも整合する
このくらいの歳の差あれば・・、
世の女性も、夫の遺産(ほぼ年金のこと)で残った人生を少し長く楽しめるかもしれない
男がいくら強がっても妻を守ってやれるのは自分が生きているときだけである

年金はいくらもらえても子供には残せない・・のだから妻の座は大きい
番(つがい)になってしまえばなんぼ年月が経っても年の差は変わることはない
やはり歳の差は再婚だけにしか使えそうにない式だ

小兵衛に仕えたおはるは小兵衛が亡くなった後の人生はなかった
子供もできたようだし、そのことを不幸だと言っているのではない
女性の人生は長い、人生を二度楽しめたかもしれないのに残念なことだと思う
既婚者女性読者と小生は同じ立場である
いまさらの話ではあるが、
一度や二度の結婚の失敗でくじけることはない、と言ってるつもりなのだ
そう思っていただければ、再婚も歳の差も得難い機会でもあるのではないだろうか
(31.1.18)



no.58雨水(うすい)の頃

水仙が咲き始める

(写真註:水仙が咲き始める)


2月19日は二十四節気の雨水である
この時は”あまみず”と読んではいけない
立春からほぼ半月、その分温かくなまっていた体が動き出す
ほぼ施設のお泊りに慣れてきた田舎のババ(家内の母)から電話が来る
「なにもせんでもいいのか」
「おばあちゃんもうなにもせんでもいいのだ」と言うと
「百姓は今日することを延ばしてはいけない」と言う

田舎の百姓作業もずっと昔から共同作業になって勝手に何かすることはない
その共同作業にすら20年も前に来てくれるな(定年)と言われた
自分の畑を作るのは勝手だが、それが今「道の駅」に出せば金になる
隣の家も隣の家も元々兼業農家だったから・・
今は逆に年金を超える収入があるという
日本の農民は勤勉だからもう「雨水」の頃には動き出す
だから気になって仕方がないのだ

やっと施設に泊まれるよう進めてきたのである
何とか施設に馴染んでほしいと思っている
「もう百姓仕事は無関係だ」と言おうとするが、それが理解できない
電話で言い含めようとしても喧嘩になるまで続く
もちろん認知症が進んでいる
初歩だと初歩だと言っているうちに本人は時に30年位は話が戻ってしまう

今でも、畑に出るのが嬉しいらしい
家内にも、野菜作りをやめるように言っているがなかなかやめない
そう思えば米作りから野菜作りまでプロだった母親がきっぱりやめられるものでないのは分かる
ただ、もう何も出来ない
一人で出来ないことをするということはそれなりに迷惑になる
小生はそう言うが、そこまで言われると実の娘である家内には辛いことだろう

思うに日本の農業はそうやって進化しそうやって滅んできたのだろう
老人は現代の農業生産に関与していない
仮に、そのような姿を見るとしたらそれは道の駅農業であり家庭菜園である
田舎の家庭菜園は単にじいさんばあさんの小遣いになっているのではない、家庭菜園農業なのである
家庭菜園のビフォアーが「道の駅」でアフターが「老人施設」である
もう一段認知症が進めば完全にアフターである
だから、畑が気になるとディサービスも泊まりも行かないとごねるのである

田舎の共同作業も数年前から株式会社制度になっている
お彼岸の頃には株式会社の大きなトラクターが動き出す
何もかも数人の達者な人(老人が多い)のみがやってしまう
何にもせんでもいいのとは違う、何も出来ないのだ
田舎にいて、誰も百姓仕事に手を出せなくなっている

畑仕事は季節とともにある
なのに季節と関係のない辛い生き方だけが残っている

(31.2.19)




no.59叱り方が分からない?

ミツマタの花

(写真註:ミツマタの花)


そうなんだよな
親が分からないのはしかり方なのだ
叱り方を間違うと子供のためにはならないとは思う
しかし、間違いばかりではないやろーし
子供のためにならないのは親のためにもならないということだから
どうせ自分に返ってくるもの
親子ならたまにはがちんこ勝負も当たり前
がちんこしたら親が負ける
孫に嫌われたら爺さん婆さんも出る幕なし

まるっきり叱らないのもいいけど、それじゃ子供は将来寂しがる
でも躾けと思ったとたんに子供にもストライキされ
気がつけば子供に躾られていた

子供に躾られてしまったのは親たちではないのか
子供の時に親に勝った子と言うものが将来どうなるかは私は知らない
親が躾をあきらめてしまうことのつけは大きい

そもそも、これは団塊の世代の我々のツケかもしれない
壊すときは何でもかんでも一緒に壊してしまう
そうであれば仮に昭和の空気に戻すだけで後2、3代かかるかもしれない
世の中のためになる子を育てるのが世間と違ったのかな

これほど世間がうるさくなれば、もう親も学校も何も出来なくなるわな
テレビは無責任な評論ばかりを垂れ流す
3歳から親元を離れて子供を育てる仕組みを作らねばならないかもしれない
何、そうなっているって・・・???

(31.3.1)



no.60この世のことも分からないけれど

園芸店では正月から花をつけているパンジー

(写真註:園芸店では正月から花をつけているパンジー)


このブログにふさわしくない点もありますが、
この世とあの世のことです
仏教用語では此岸(しがん)・彼岸(ひがん)と言うのでしょうか
この世のことも説明されないまま、あの世のこと言われても困りますが・・、
この世からあの世は私らには見えてません
この世があるようにあの世があるのではないということは私にもわかります
だが、あの世からこの世がどう見えているかということは分らない

もし、あの世からはこの世があって見たければ見えますよと言われたら、
あの世の私はその後の残した妻のことは別にしても、子や孫の姿は見たいと思います
出来れば家が残っていてほしいです
それは私が本当に凡人だからです
しかし、姿は見えても心は見えません
凡人にはこの世で見えなかったものが見えるはずがありません

仮にですが、あの世からこの世は見えていると教えられたら
私だけでなくこの世の人の生き方は大きく変わっていたと思います
しかし、見ているとしても何のシグナルも送って来ないなら同じことです
と、自分で自分にうそぶいてきました
仏だって仏になってまでそんな浮世のことはまで見たくはないはずです
たしかに仏は助けてくれません
自分が行き詰ってるのは天罰ではなくまさに自分がまねいたことなんです


仮に本当に父や母の言葉を聞けるとしたら、間違いなくその霊媒師には畏怖の念でのめり込みます
ただ、仏はきっと生きてる時と違うことを言うと思います
向こう岸です、彼岸と言います
向こう岸なら恐れることはいりません
こちらの人は今までどおり生地(ハギレかもしれない)のまま生きていけばいいのです
実は向こう岸から私を見ているのは、それは自分の目かもしれません
あちらのことは知りません
こちらのこの世は今もこれからも狂宴つづきです・・今はだから良くも悪くも救われているのです
(31.3.21)



no.61「20インチの自転車」

春は椿

(写真註:春は椿)


昔のことである、市場に使いに行った
肉屋に行って(並、100…円)と言うのが小学生の私の仕事だった
公設市場だからそれで小学生の買い物お使いが出来た
もちろん我が家の今晩にふさわしい肉を買っておいでと言われたらお使いは出来ない
ひょっとしたら今でも出来ないだろう

父親のタバコを買いに走った時、前かごに入れたタバコを落として帰ってきた
父は怒らなかったが、私は夕暮れまでタバコを探し回った
私が小学校の高学年になった頃、妹が目の病気になった
私は毎日妹を後ろに乗せて一駅向こうの目医者に通った
振り返ればそれが妹の難病の発症の始まりだった
一番大事な時に医者はビタミン剤を飲めとしか言わなかった
私が親に変わって医者に連れて行って何になるのだろう
自転車ではないが・・
その後も私が電車を乗り継いで妹を大都会の大学病院に連れて行ってた
それが私のお使いなのである

話は自転車からそれたが・・私の20インチの自転車は小学校の入学祝に祖父が買ってくれた(と父が言っていた)
買ってくれてすぐに祖父が亡くなったので買い替えが出来なかった
私は小学校終わるまでその自転車が愛車だった
我が家の自家用車だった・・よく働いてくれた、すごいと思う、不思議にパンクの記憶もない
中学になって通学のために買ってもらった自転車は26インチだったが、
そのころ妹は随分安定していて私が妹を乗せて医者に行くことはなかった
そのころが一番よかった気がする

どこの家にもある経過だ
妹にとっては病が再発するまでの間の記憶が一層濃密なのだろう
だが、それが頂点でもないしそれが底でもない
妹は高校にも通えたし、それだけでなく結婚もし子供もいる
その子がもう40才になる・・それでいてずーっと妹は難病と闘ってきた
何度も生きるか死ぬかの山を越えてきた・・・が、今も自分の家族を持っている

子供用の20インチの自転車が支えて来たものがある
シンプルでタフで贅沢も道楽もない、リヤカー並みに働いてくれた
本当に・・足が地面ついてる
そのかっこ悪さこそが原点なのだと思う
それが小学生の時の私の家族の思いだった

不思議に父や母のことが記憶にない
20インチの自転車しか浮かんでこない
その私も自分の家族をもって45年になる
子供も家族を持っている
この頃ときに記事が停滞する
心境の変化ではない
言いたいことが書けないのだ
今水平線の下にいる
波の下なのだ
こんな時はさすがの鯵庵も書けない
(31.3.28)




no.62「(続々)夫婦の歳の差は縮まらない」

ハクモクレンが咲きだすと数日でサクラが咲く

(写真註:ハクモクレンが咲きだすと数日でサクラが咲く)


人口動態統計、国の統計である
最近の結婚(初婚どうし)の平均年齢男性31.1歳、女性29.4歳となっている
これを40年遡れば男性27歳、女性24歳である
明らかに晩婚化していることがわかる、と
だが、この数値は夫婦そろって初婚の場合である
初婚どうしは結婚の4分の3未満である
4組に1組はどちらかがもしくはどちらも再婚である
再婚の夫の平均年齢42.9歳で妻は39.8歳である

ザクッと言うと
再婚組は結婚して10年で再婚にこぎつけているという見方もできる
再婚は何度でも出来るから、その数は、離婚の数を示している
これだけでは個別の再婚夫婦の年齢差は読み取れない
歳の差は艶福度合いを示しているという小生の持論は統計をもっと読み込まねばならない
再婚した人にとって国の統計値も年齢差も関係はない
もともと初婚にしろ何度目の結婚にしろ、当事者にとっては艶福は当たり前、歳の差があろうとなかろうと艶福である

国の統計だってもっと意思を持ってほしい
統計というものは本来面白いものである
初婚どうしの平均年齢より再婚の歳の差の方が小生には興味ある
男性も女性も、離婚には慎重に・・その代わり再婚には勇気をもって下さい

今回のシリーズはただそれだけのことである
剣客商売秋山小兵衛に始ったシリーズ「夫婦の歳の差は縮まらない」を一旦終える
(31.3.29)



no.63「愛を手に入れる方法」

ミツバツツジ

(写真註:ミツバツツジ)


愛を手に入れる方法はない?
キレイになることだと思う
キレイになる方法が間違っていると愛を手に入れることはできない
幸せなのか不幸なのか、思い方次第だがやはり不幸は不幸である
キレイにも幸せにも循環というものがある
循環に乗らなければいつまでも幸運や愛を手に入れられないのだ
愛は売っていないがキレイになる方法は売っているのだ
それを宝石だとか化粧だとかと思うと、本物が手に入らないのだ

親からの愛で子供時代を過ごしてきた
青年期になって急に男として女として値踏みされる世界に放り込まれる
愛を得るために何が大事なのかを学習していないのだ
愛は売っていない、そのことに戸惑うのである

キレイになる方法はいろいろあるが
男は自分を洗うことだ
女は自分を磨くことだ
いずれも少し時間がかかる
年をとるとともにキレイになることが出来たとしたら
必ず愛を与えることが出来る


いい人と付き合いたまえ
上手くすれば愛を得ることもある
愛とはそれほどのものだ
急ぐことはないが
方向は間違ってはいけない
貴女にはその資格はある
(31.4.6)



no.64「仕合せになりたい(前)」

苧環という字を当てる、オダマキ

(写真註:苧環という字を当てる、オダマキ)


"自分らしく生きようとしているのに幸せになれないのはどうしてでしょうか"
こんな相談が載っていた
"自分らしく生きていられたら幸せじゃないですか"
こうやって、また嘘を教える人がいる
その通りでもあるが、こんな質問をする彼女に理解できる筈がない
自分らしくと言ったって、ファッションのことを言ってるのかもしれないし・・
ひょっとしたら、つけまつ毛のことかもしれないし・・
自分らしさとは自分のために生きることでもないのだよ

そもそも自分らしく生きるという川と幸せになる川とは違う川である
いくら下って行っても違う海に出てしまう

大人になって子供の幸せは求めても得られない
そのくせ子供の幸せが一杯あっても不幸という

分からなければ、自分らしくという幻想を止めることなんだ
優しい言葉でいいから・・特に大事な人には・・自分らしく生きようとするから幸せになれない
と教えてあげるというのが大人の親切というものである
鯵庵(31.4.7)



no.65仕合せになりたい(後)

ボタンは花の王者、これは芳紀という

(写真註:ボタンは花の王者、これは芳紀という)


人生相談がやってくれる
この前は"自分らしく生きてるのに幸せになれない・・"だった
そっけない答えをするものだから
今度は"自分らしく生きるにはどうしたらいいのでしょうか・・"ときた
30代も半ばになってデザイナーを目指しているようだが成功しない
このまま夢を追ってデザイナーの道を進むか
自分らしくいきていく夢を捨てて・・結婚して子育てもしてみたい
というのが悩みである

両方の夢をかなえている人がたくさんいますよ、と激励の答えは一応は言わなければならない
されど、結婚というのは予定通り行くとは限りませんよ・・と
そこまでは、人生相談の回答らしいけど・・
相談者は結婚・子育てが誰にでも出来ているように思ってるらしく
せめて、こちらの方こそ難しいですよと言ってやらねばならない


夢なんて誰にでもあるのです
せめて、自分らしい夢にしたらいいのですが
夢であるということは一つの夢でも大変なのに・・
両方の夢をかなえられる人は計算の外です
どっちもつかず・・!?
と言ってやらなければならないのとちゃう
それと、やはり気づくのが遅かったのかも・・
(31.4.9)



no.66灰色のハート(前)

春になったら途端に咲いている

(写真註:春になったら途端に咲いている)


道を外れた時その道へもう一度帰って来れる力がないと、教えられない
と言われた
これ、パソコンの操作の話である


元へ戻すと言ったって、闇雲に逆走したらかえって具合悪くなる
これは、人生相談である
新聞に載っているような人生相談というものはほぼ仮定の話である
現実の話だとしても、本音の半分は隠されている
おかげで「不倫」という言葉も安易になった

今回の話はこうである
・・・妻子ある男性とずるずる関係を持っているうちに自分も結婚することになった
ずるずるの相手と別れ話をしてしばらくは・・・
子供もできて幸せなのだがやはり元に戻ってしまった
互いに家族を持ちながらあれからもう10年も続いている
不倫をやめたい気持ちがあるのに自分ではどうしたらいいのか分からない

どうしたらいいかって言われても、おそらく別れられないだろう
この道はバレなければいいのだから・・むしろ今までの成功体験が後押しする
回答者は「30代よりも40代は年令も加わって心も成熟していくのだから、その中で満たされない心を埋めていくすべというものを見つけなさい・・」
というのだが・・
(この項続く)(31.4.10)



no.67灰色のハート(中)

春はキク科の雑草

(写真註:春はキク科の雑草)


(前編に続く)
逆に人間は40代・50代と年令とともに満たされないものがどんどん膨らんでいくものだ
それを言えば人生相談ばかりになる
そんな中でこの腐れ縁を切ることは"嫌程嫌い"になることしかないのである
好きであることと嫌いでないということはまるっきり違うのだ
嫌いでないだけにずるずる関係を持ち、嫌いでないだけにずるずる結婚し、
嫌いでないだけでずるずる子供を育てている
そういう男女が欲求のある若い時に知り合えば、必然的にずるずるとなる
ずるずるというのは自分だけが可愛い性癖なのだ
それはセックスの上での性癖でもある

言い換えれば、自分を大事にしてくれる人や夫や子供たちを本当に愛することの出来ない性癖なのである
だから、少々失敗してもその性癖が戻るものでもない
その点この男女に関しては浮気症とは別のものといった方がいい
切りたくなった特に切れないのが腐れ縁で、いつまでも切れなければそれは悪縁になる
しかも今回の罪は人を欺むく悪意がある

もはや神頼みであるが、縁を結んだ神のところへ行かなければならないくらいだ

男性の浮気は95%がバレて、女性は5%しかバレないという統計?がある
これは明らかに浮気を誘う男性側の意図が含まれている
別の統計?もある
男性の95%は女性の浮気を許す、女性が男性の浮気を許すのは5%だという
この数字には浮気を知って黙っている数字が多く入っている

実は女性の浮気のほとんどもバレているのである
女性がそれに気づけば浮気が減る可能性があるがそれは言わない方がいいのだろうね
この項続く(31.4.10)



no.68灰色のハート(後)

ムベの花

(写真註:ムベの花)


灰色のハート(前)または灰色のハート(中)から続く
人を好きになることこそ人たる美徳であると思う
本来のハートは血の色である
その中で男であったり女であったりするのだから・・
また、その中で人はどうやって生きていけばいいのかを迷うことが倫理である
人の悩みの底は複雑である
だから、人生相談は仮定でなければならない

回答者は迷いに対して諦めの助言は出来ない
そのくせ相談者は自分の答えを先に持っている
しかも答えが載せられない相談はそもそも採用されない
男女の現実はまた違うところにある
せいぜい自分で苦しめばいいことだろうけど、
実生活の方が仮の姿だったりもする
仮定の相談で世を欺いて生きていくのは苦しいことだろう
真っ赤な血が流れるハートばかりではない

人は引っ張ったってついてこない
せいぜい後ろから押してやることである
ただ、世の中親切な回答者ばかりではない
後ろから押してはやるが、受け方をまち間違えれば下手をすれば堀に落ちる

昔、何か相談すれば「あんさん、別れなはれ」というのがあった
今の世でも・・相談の9割はその答えが一番親切だともいえる
そうでないと相談になど来ない健気(けなげ)に生きている人が割を食うというものだ
きっと、答えはそっちの方に多くあるのだろう・・な

(31.4.11)



no.69「草餅の頃」

シャガ

(写真註:シャガ)


どんこ氏からの草餅と便りが届いた
田舎暮らしもこの時期は忙しいという
田舎では、桃の節句を月遅れで祝う
月遅れだと4月の3日になる
因みに旧暦だと今年は4月の7日になる
4月の8日は花まつりでお寺の行事もある
入学式もあるし、学校も始まった
花まつりも学校も新暦である

農業は太陽暦(新暦)で行動をするので、サクラが目安だ
しかもこのあたりは開花予想の埒外である
おかげで桃とサクラが一緒に咲く
行事は月遅れ、旧暦、新暦織り交ぜである
二十四節気では晴明(4月4日)の気候である
ヨモギもツクシも摘むのに丁度いい
ということで、桃の節句は「草餅の節句」とも言われるぐらい草餅がつきものである

草餅は昔はハハコグサだったとあるが、今はほぼヨモギである
ヨモギは薬草の山伊吹山で有名である
漢方の生薬であるし、もぐさの材料でもあるということで、色だけでなく、邪気を払うために餅にも入れた
草餅もいろんな食べ方がある
子供にあんころ餅、大人は焼いてお湯につけてきな粉をまぶして食うというのもあった
どんこ氏の奥さんは今でもちゃんと餡を炊ける

街中にある丹波屋でもいつでも草餅も売っている、結構うまい
京都桂橋のたもとの有名和菓子屋のよもぎあんころは、やわらかいよもぎ餅を粒餡で包んでいる
こうすると高級和菓子になるから不思議だ
高級感が一杯になると餅をついたことのない世代がいつも行列している
それはそれでいい・・自然のものと一緒に暮らすのは鄙(ひな)の心である
ヨモギを摘んで、臼で餅を搗くこと自体が邪気を払うのである

都市では何でも得られる、食生活が豊かになってきたのはいいとしても、食い物に祈りを託すことは出来なくなってきた
新学年の始まる子供に節句のよもぎ餅を食わしてやろうという気持ちは我々の世代が壊してしまったのかもしれない

子供にも大人にも一番おいしいのは愛と祈りをつき込んだ餅に限る・・筈だ
桃の花の咲くころが草餅の一番おいしい時期だ・・
(31.4.12)



no.70「バチか祟りか怨霊か?」

ゴールデンウイークが始まるとクレマチスが咲きだす

(写真註:ゴールデンウイークが始まるとクレマチスが咲きだす)


新聞の人生相談も毎日となるとネタがなくなってくる
何年かで一巡りしてくると思っていい
答えがあっての相談だからだ
上手くそれにはまってくれるばかりではない

今回のは少し面白かった
60代の女性が先に死んだ母親の祟りで悩んでいるという
どんなことかと言うと外出の服に大量の鳥の糞がかかったり
その他訳の分からいケチがつくという
贅沢をすれば罰が当たるようで怖いと言う
生前十分な看病をしなかったと反省しているのはいいが
だから・・そのバチが当たってるという

どないしても生きておりゃ、バチも当たるし
バチが当たったと思ってもそれで済むもんでもない
相談の内容ぐらいなら、そんなもんバチにも値せんと言うてやるしかないのだが
怨霊などと言いだすと俄然面白くなる
そこまで行くと新興宗教みたいになって人生相談にならないのが問題だ

親の世話・看病、に限らず人の世話は十分でないことの方が世の常である
つもりはあくまでもつもりであり、それだけしかできなかったということだ
なお言えば、それはそれだけしかする気がなかったということと同じである
バチだ、バチだということは、言うなればバチ逃れなのである

怨霊信仰の原点みたいな話だ
子が親に祟るのも親が子に祟るのも暮らしているからである
親のバチならば親が生きててこそ食らうものである
生きて苦しんでいるときの怨念をしっかりと受けてやるべきである

それでこそが親孝行というものである
鯵庵(31.4.22)




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