アクセスカウンター
着物買取着物買取着物買取着物買取着物買取
路地ろぐ(ブログ編)「家族の序章」
京都写楽苦会作成のブログ『鯵庵の京都事情』へジャンプします。ブログ『鰺庵の京都事情』へジャンプします]
『鯵庵の京都事情』ブログ編(第2章「吾亦紅につっこむ」)へジャンプします。ブログ編(第2章「吾亦紅につっこむ」)へジャンプします。
『鯵庵の京都事情』ブログ編(第3章「家族の様」)へジャンプします。ブログ編(第3章「家族の様」)へジャンプします。
『鯵庵の京都事情』ブログ編(第4章「往生してます」)へジャンプします。ブログ編(第4章「往生してます」)へジャンプします。

路地ろぐ(ブログ編)第5章「葬式のレール」

新切鰺(しんぎれあじ)の京都巷談。新切鰺は都市漂泊。舌足らずの言いっぱなしブログです。京都暮らしの横断面図は不都合事情。ブログを書く時は鯵庵と名乗っている。R4.5.15


「路地ろぐ」京都編indexに戻る

路地ろぐ(ブログ編)第5章「葬式のレール」


no.521「看取り」(R4.5.4)
no.520「入院」(R3.5.20)
no.519「墓との距離」(R3.5.9)
no.518「骨壺」(R3.5.3)
no.517「棺の値段」(R3.4.28)
no.516「焼却炉」(R3.4.26)
no.515「葬れん」(R3.4.24)
no.514「中陰」(R3.4.20)
no.513「地獄への道」(R3.4.18)
no.512「経験」(R3.4.17)
no.511「遺産」(R3.4.28)
no.510「死亡届」(R3.4.11)
no.509「戒名は必要か」(R3.4.9)
no.508「僧侶の役割」(R3.4.6)
no.507「葬式は誰のために(R3.4.4)」
no.506「終活」(R3.3.31)
no.505「家族葬」(R3.3.30)
no.504「荼毘」(R3.3.29)
no.503「無縁死」(R3.3.27)
no.502「孤独死」(R3.3.26)
no.501「火葬」(R3.3.24)

no.1火葬

阿弥陀如来(法金剛院)

(鉛筆写仏 註:阿弥陀如来(法金剛院・院覚作))


葬式は辛いものだ
しかし、葬式を成し遂げることで自分の死という別の辛さを感じることができる、という
今の葬式は火葬という極めて厳粛なしかも化学的な酸化によって肉体の処理をする
現代では誰もが避けて通ることのできないことになっている
魂は気化し、他人には捕えられない宇宙哲学の世界に入ってしまう
地獄で裁かれるのは仕方がないとしても肉体がさいなまれることは実感がない

火葬の一番の利点は地獄まで肉体を持って行かないことである



no.2孤独死

地蔵菩薩

(鉛筆写仏 註:地蔵菩薩(如意寺・快慶作)


同じ死でも辛いことの第一は"孤独死”だろう
例えば、賃貸し住宅で独り暮らし、誰にも看取られることなく亡くなる例は年々増加している
統計では65才が境目だ、65才以上の人はこのパターンに入る
近親者や隣近所の人との付き合いが減っているのは都市だけもない
何故、"賃貸し住宅"かと言うと、そういうことでしか統計値が得られていないのである
我が国はそういう事態(独り暮らし)に至ったことに極めて冷淡である
そう言っている間に、金を持ったままあるいは施設や病院でも"孤独死"する事例がたくさん顕われてくるだろう
いつまでも個人の経済的問題(貧困)だと考えている
それが冷淡だということだろう



no.3無縁死

コスモスの色

(鉛筆写仏 註:阿弥陀如来(願成就院・運慶作))


誰にも気づかれず一人で死ぬことを孤独死とした
それも含めて役所用語では孤立死という
家族や社会から孤立した結果として、死後長期間放置されることを言う
望まぬことであっても・・個人の尊厳は家族や社会とのかかわり方をある程度選べることである
家族と一緒に暮らすその煩わしさを避けても避けられても・・
その結果として高齢者は必然的に独り暮らしになる
そのままであれば・・・結果として孤立死になる人を救えないのだ

「チチキトクスグカエレ」、遅れて死に目に会えなかったというような文学の世界ではない
むしろ、腐敗した屍として他人に発見される生物学の世界である
そこまで行くと身内に葬式をしてくれる人すらいないのだ
医師が立ち会わない限りいかなる場合も検死が必要だ
同時に身元確認が行われる
身元が分からなければ「行旅死病人」と同じように自治体のお世話にならなければならない

身元が判明しても引き取りは拒否される場合もある
それが「無縁死」という状態なのだ
究極の寂しさは葬式である
最後の社会との関わりが火葬である



no.4荼毘

松山容子

(鉛筆写仏 註:阿弥陀如来(浄楽寺・運慶作)


750年前親鸞が亡くなった時、清水(きよみず)の鳥辺山(とりべやま)で親鸞を荼毘(だび)にふした
おおよそ一日がかりで多くの人力と燃料が必要だった
屍を荼毘にふすということは精一杯の宗教行為であった
親鸞の場合は宗教的にはキリストの磔と同じような意味を持つと思う
肉体がなければ拝まない古代の宗教観を超えた瞬間かもしれない
大宝律令の時代、41代持統天皇は率先して自ら火葬を指示した
現代に至って庶民も、どんなに無縁であろうと火葬だけは行わなければならない
火葬になってはじめて仏になるのだ

火葬は屍を無機の灰と気体に変えてしまうのだ
その無常さを親鸞とその弟子たちは皆に教えたのである
昔、焼き場から上がる煙を眺めて故人を偲ぶ映画のシーンがあった
その気体こそ魂という
今は匂いしない
人は荼毘(だび)によって終わって、荼毘から始まるのが残った人の人生なのだ
荼毘とは火葬のことである

それを・・例えば葬儀の形態で言えば「直葬」とよんでいる
(※ちょくそうというのが普通・音が誤解の元になるが・・・小生は時々じきそうと言ったりする)
死亡届を出して火葬の許可をもらえば、まさに直接火葬場に向かうことも可能である
どんなにみすぼらしいことであっても必要なことはそれだけなのである
ただ、葬儀である限り故人と遺体の尊厳は守らなければならないし、守るべきである
多くの庶民が火葬されるのは実はここ100年のことであるが
実は火葬こそほぼ1000年近い歴史があるのだ



no.5家族葬

観音菩薩

(写真註:観音菩薩)


今、仮にインターネットで「直葬(ちょくそう)」を検索してみると・・
以前よりはるかに葬儀の形態として定着してきているように思える
葬儀屋も葬式を大きさだけで商売するしていけなくなっている

葬儀の流れは同じである
一つ、遺体を引き取り安置する
一つ、打ち合わせ・死亡届の提出・僧侶の手配・通夜
一つ、納棺・告別式
一つ、出棺・火葬(および式中の初七日法要)
一つ、支払い・・・となる
参列者2〜3人で通夜も告別式も省略すれば20万円ぐらい、と言っている
直葬でも「火葬式」といういい方もある
何度も言うように法律的には火葬の許可さえ出たらいいのだ
もっと節約したやり方を選択できる
が、流れは同じである

不思議な話であるが、個人の葬儀は元々家族葬だ
参列者とその経費を見直したい場合に言う
その場合の「家族葬」であれば、少人数でも一般的なセレモニーを行う
・・・100万円以上はかかりそうだ
僧侶への謝礼は別である
葬儀の意義をはっきりさせなければ同じである
僧侶には家族葬ゆえの割引はない

あとは参列者の数に左右される
葬儀は残された者のためにある、という考え方も正しい
家族葬なのに故人に無縁な参列者が増えたのでは今までと同じである
遺族の意向がはっきりしているなら、告別式への参列は見合わすべきである
その代わり・・通夜の時に弔意を伝えるのは自然だし差し支えないという
故人を中心に考えればそれも自然なことである

例え孤独死でも、参列者が一人もいないということはあり得ない
身元不明であってさえ、遺体の尊厳を守るためには多くの人の手を煩わすことにならざるを得ない
それが葬儀なのでである



no.6終活

宝冠阿弥陀如来

(鉛筆写仏 註:宝冠阿弥陀如来(泉涌寺悲田院・快慶作)


告別式会場から霊柩車で火葬場(斎場とも言う)に
(余談ながら・・死体は物であり、緑ナンバーの車でなければならない)
葬儀場の炉の前に運ばれた遺体は
火夫が故人の確認を行って棺の蓋を閉じる
足元から耐火シャッターのうちに入れられ、炉の扉が閉じられる
化粧扉が閉じられ、僧が簡単な読経を行う
それが点火の合図になる
足元先端部のバーナーの火が棺と暫くの後遺体全体に回る

「火葬」を省略できないのが葬式である
だから、言い換えれば火葬を行うために付随したものが葬式ということになる
人の死に対して火葬の儀式だけは平等である
絶対に差があってはいけないのである
その平等性が守れるのであればそれらに付随するのもは逆に自由であって差し支えない
ただその自由度は一番先に故人の気持ちの反映であるべきである
自分の末路として自分の葬儀の形を選ぶのは望ましいことである
が、実行されるかどうかは分からない

平たく「終活」などと言う言葉はそのことを言っている
気が付いた時には間に合わないのもこれである



no.7葬式は誰のために

薬師如来

(鉛筆写仏 註:薬師如来(薬師寺))


葬儀の自由度という言葉は本人(故人)の気持ちである
例えば小生の父はそのことを言い残さなかった
小生は自分の意思で父の葬儀をした
葬儀屋の会場の都合もあった
大きな葬儀ではあったが・・
父の住まいから距離があった
体の調子の悪い父の友人たちの参列が少なくなった
親族の他は多く私の仕事の関係者であった

だが、あらかじめ下あたりした地元の寺院は宗旨の違いで断られていた
父も私も付き合いがなかったのだから仕方がない
生きていた人の尊厳は葬儀が終わるまで守られなくてはならない
長く難病と闘っていた父としての尊厳はかすかなものになっていた
が、私は父の人生を誇りあるものとして見ていると多くの人に語り得た
それが父のためだったのかどうか、父に気持ちを聞くことは出来ない
葬式は誰のためにするのかというのは現代でも命題の一つになり得る
男性も女性も、社会や家族の現役を離れて20年も30年もたっている
寿命を全うすれば・・
それはいかに普通の人(仏)になるかという旅でもあり修業でもある
その旅の終わるときに過去の栄光が気になるならそれでいい
最後の見栄という人もいるだろう
が、多くは家族の気持ちでもある

我が国で死亡した人の99.99%が火葬である
火葬場の煙突から陽炎のように揺らめく空気を眺めれば
葬儀が誰のためであってもそんなことが気にならなくなる
昔、荼毘(だび)にふせば大勢で一晩中かかったことも
今は一時間ほどのことである
酸化という化学反応である
残されたものは骨ではなく無機物の灰だけなのである


葬儀の自由度という言葉は本人(故人)の気持ちであると、言った
私の父はそのことを言い残さなかった、と言った
病気療養中の父は、言い残す気力かタイミングを失っていたのかもしれない

父の死から20年後に母が亡くなった
私に任せるしかなかった
自分で希望を述べる資格がないとばかり思っていたようだ
実は、母と父の縁は40数年前に切れて、その時から母と私との縁も切れていた
それから40年後、母の最後は母の故郷の病院で生きていた
生きていた母は、私に会っても何も言わなかった
謝りもしなければ、恨み言も言わなかった、ましてや葬儀の希望など何も語らなかった

少し前には実家の墓に入れてくれと言うかすかな希望があったようには聞いていたが・・
70年も前に故郷を出て行った者にそんなことが叶うはずがなかった
そんな母の葬儀を母の故郷で行った
女の人生、もっと言えば女の第2の人生があれば50代に始ると私は思った
人の妻であり私たちの母であるなどと言う変哲のない人生ではない
女性もふんどし〆てかかれば、第2もあれば第3もあるのではないか
そもそも戦争中の満州で女一人暮らしていた
終戦やら結婚ですらすでに第2、第3の人生だったのかもしれない
思えば、母は自分の前半の人生はもう早くから葬った人だったのだ
だから母の後半生の葬儀である


後半の人生の中でお世話になった人だけで葬儀を行った
葬儀社の会館にお世話になりながら僧侶も頼まなかった
私は喪主を務めさせていただいた
母のかすかな遺徳が葬儀の形体と意義を作った
ただ、少し事情があって母の所持金は50万しかなかった
小さな葬儀に母の所持金を全部使ってやった
日向灘に面した小山の上に最新の設備をもって新設され火葬場に送った
没落し貧しい母であったがれっきとした市民であり、
その限りにおいて有名人や金持ちと変わらない扱いをしてくれた
私は火葬の費用数万円は出した、それだけが喪主の勤めだった

まともな看取りは出来なかったが骨を拾う、ということになるのだろうか
あと一つ、勝手に母の戒名(法名)を決めて私はそう呼んでいる
母の葬儀はもうすでに自分の葬儀でもある
葬儀が誰のためにあるのか?
それは言わない方が、あるいは決めない方がいいような気がする



no.8僧侶の役割

阿弥陀如来

(鉛筆写仏註:阿弥陀如来(三千院))


人は皆、数多くの葬式を見てきている
ひょっとしたら自分の時の参考になるかもしれないと思う
だから、葬儀は進化してきた
葬儀屋に言わせれば客の望みに近づけてきた
その気持ちはお寺さんと言われた僧侶も同じだろう
僧侶の数が故人の偉大さを代弁するとはだれも思っていない
が、引導役の僧侶の位や衣装が葬式の演出をしてきた
逆にその気持ちは葬儀屋も同じだろう
大きな祭壇ほど熱が入るのは当然である

「火葬式や直葬で戒名や引導に僧侶が関与しないのは伝統的な葬儀でなく
故人の意思であったからと言って正しい葬儀ではない」
と、各地で僧侶を職業とする団体が格安葬儀を牽制している
ならばとばかり、
火葬後の自宅で小規模ながら正しい葬儀をしてやろうと提案しているのもある
それもいいだろう
そういう形も自然だし昔からある
そんな時こそ僧侶の存在は遺族の救いである
確かにホールや斎場を使わなければ経済的な負担は小さくなる
その上で「僧侶の分をケチらなければ正しい葬儀である」というのは余りに手前みそな話である
極端に言えば営業を越えて宗教的脅迫だと思う


葬儀の僧侶は霊媒師ではないはずだ
我々より数倍も俗っぽい生活をしながら言うことではないと思う
火葬はどんなに短時間であっても故人にも家族にも一番の宗教的行為だと思う
だから私は、軟(やわ)な気持ちで火葬場に同行してはいけないと皆に言う



no.9戒名は必要か

阿弥陀如来

(写真註:阿弥陀如来(妙法院))


葬儀が出来なければ戒名をつけるチャンスを失う
葬儀を依頼した僧侶に謝礼をすれば、必然的に戒名がいただけることになる
通夜・告別式の謝礼の名目は「布施」ではあるが、戒名料は明らかに謝礼である
ということで、告別式を機会に戒名を持つこととなる
宗派を選ぶのは本来教義への信奉者としての意思であるが
日本では檀家制度の名残が根強い

葬儀の時は準備不足であわてて・・・家の宗派に戻ってしまう
それでいてどこそこの寺の檀家だったりとか自分が仏教徒だったとかを再認識したりする
葬儀のしきたりを僧侶や親戚の物知りに教えてもらってほっとするものなのである
何かと古いしきたりが次から次へしかも寄ってたかって口をはさんでくる
もう喪主としての主体性などどこにもなくなる
何しろ、仏が人質に取られている

心ある人は、その時自分の葬式のことを思ってしまう一瞬である
が、終わってしまえばすぐに忘れてしまうものでもある

結果、亡くなった人への愛が、僧侶へのお布施に代わる
・・ということで、おかしなことに僧侶への「お布施」にも相場というものが出来る
通夜と告別式を頼んだら約20万円/ 1人(この場合は、以上という意味である)、車代、膳料とくる
交通費と食事代だけは実費以上であればいい
ただ、それとは別に戒名料が必要なのだ
最低で10万円、家名と仏のためと見栄を張れば100万円払う家もある
基本的には本山やお寺の生活維持にかかわる費用だ
寄付だとしたら上限はなくなる
・・・これは檀家としての相場である
檀家であることにこだわるから相場が気になるのである


あなたが新しい都市の住民としたら、私は葬儀のこの時が考え時だと思う
いまさら、故郷の寺と縁を戻したりあるいは宗旨を変えたりしてまでお寺と付き合う必要はない
信徒や檀家と言われ家の寺を持つことは結構心休まることだけど
同じことなら、好き勝手にお寺周りや写経などする方がもっと心休まる
教団の経済との付き合いかか、人の生き方の問題かなのである
そもそも信仰は選択、場合によっては拒否さえできるのものである
信仰心は究極の文学であり、哲学であり美術であり芸術であっていい

今、小さな葬儀を売りに葬儀社が変わろうとしている
人の死は仏になる第一歩かもしれないが、死はあくまで個人の最後の尊厳そのものである
人の最期にのぞんで死後の名前(戒名)に階級を設けるという
その浅ましさに僧侶自らが気づかなければならない
大きな葬式であれ小さな葬式であれ、僧侶に進行を委ねない葬式を葬儀社に提案したい

言い換えれば戒名がなくても、それでも集える葬儀を目標にすべきである

葬儀で喪主を務めるチャンスがそうあるものではない
だが、喪主を勤めなければならないとしたら・・自分の葬儀と思って勤めるべきである
父母であり、配偶者であり、家族の葬儀は自分の葬儀と同じである
父母の葬儀に学び、やがて自分の始末をつけなくてはならない
生きてるときに出来ないことは死してなお出来るものではない
家族がなくとも・・仮に、あなたが家族に恵まれなかったとすれば
自分の最期を演出するのに遠慮はいらない

このブログ、孤独死から始めた
昔から冠婚葬祭は確立された次第というものがある
葬儀そのものはそれほど難しいものではない
金がないから家族がいないから身内がいないから孤独死になるのではない
名がないから人生がないから孤独死になるのである
”終活”などと言って葬儀社のパンフレットなどを取寄せて勉強してるのは終活にならない
葬式業界の営業戦略に乗ってしまっては逆に身内に迷惑をかけることになる

親鸞には戒名はない、ただの釋親鸞である
戒名も法名も仏弟子になったしるしである
仏弟子になるということであれば、生前でも可能である
ならばどうすればいいのか
自分の法名なら自分で決めればいいのである
まずそこから始めるべきである


no.10死亡届

阿弥陀如来

(鉛筆写仏 註:阿弥陀如来(仁和寺))


死亡診断書は死体検案書と同じ様式である
死亡した人の名と死因について書かれたものである
人には死というものがある
生物学的、あるいは医学的な死というものを法律に基づいて証明するものである
医師又は歯科医師にだけ許された行為である
診察によって死亡の原因を明記しなければならないから当然のことだ
高齢者に限り老衰と言うのがある
自然死なのだが、直接的な死因と併記される
これによって法律的に初めて死になる

私の父母は病院で亡くなった
当然主治医が書いた
息子は事故死だったので警察に依頼された医師が死体検案書を書いた
どちらも医療行為であり文書料の名目で有料である
この書類は死亡届と一体になっている
死亡届はまた埋葬許可申請と一緒に行われる
とにかく不審死や行き倒れなど事件性がなければ極めて事務的な手続きである
誰かが市役所に届け出なければならない
身内の居ない孤独死だったら、大家さんや病院の仕事になることもある

普通、病院、後見人、親族、家族、長男ということになってきて分かり易く言えば喪主の仕事である
当然のことながら、後で役所への届けは他に年金のことやらなんやらと当面面倒な事務手続きが進む
が、もちろん大家さんには関係ない、相続人の話ではあるが、それは後でいい
死亡届が葬式のレールの最初の仕事なのである
手続きに問題がなければ「火葬埋葬許可書」が役所から発行される
だから、この手続きだけは跡取りの人がした方がいい
市の火葬場に連絡して火葬の手続きは完了する
が、遺体の安置と運搬は自分ではできない
葬儀屋に依頼しなければならない
それを業界では最低限の葬儀、「火葬式」「直葬」と言ったりしている
葬儀屋に足元を見られたくなかったらきちっと流れを知ることである

火葬を終え、火葬済みの印をついてもらったら遺骨となる
何度も言うように「遺骨」は実は形の少し残った灰である
遺骨を必ず引き取らなければならないとは限らない
それはまた別項で述べたい
ただ、その手続きを得ない遺骨を所持したらそれは刑事事件になる



no.11遺産

地蔵菩薩

(写真註:地蔵菩薩(寿福寺))


いつものことながら暇つぶしにテレビを見ていた
相続に関する法律がちょっと変わって、引き続き「終活」という話題になった
円満な相続のことを考えるならば人並みに・・終活をしておけというのだ
一は預金のありかと額(遺産のこと)
二は誰が介護をするかということ
三は葬儀の仕方のこと、あえて追加すれば誰まで呼べばいいかということ
自分の仕舞いを子供たちと決めておくことこそトラブルを防ぐ方法だとのたまう訳である
うっとおしいものを見てしまった

子供に預金の話をあからさまに出来る親は今は1割もいないだろう
そんなことをする人は生きてる間に地獄を見る
介護のことを子供や嫁にあらかじめ頼んだとて何の保証もない
それどころかなんやかんや言って前金で取られる
葬式に誰を呼ぶかなんて言ったって、そもそも思惑がずれている
来てほしいと言われて行くというものではない
行けなかった時の言い訳のネタもいる
家族葬と言えば親戚すら来ない・・ことなどざらである

誰かが言っていた、そもそも、
遺産とは生きてる間に子供らに譲りたくなかったもののことである
それが葬式を境に死に金になる
親も子もそれぞれ別々の世帯でまるっきり違う家計を営んでいるのである
自分の持っているもので施設でも入ってくれ
そうでなければずっと入院してほしい
そうでなければ元気な時に死んでほしい
そこまで言われれば、息子の扶養家族になるわけにはいかんやろ

そんなことを終活というなら
・・一層のこと家族が集まった時に
「残ったものはみな一万円札にして棺桶の中へ入れてくれ」と家族に言ったら叶うだろうか
それが叶わないようだったら、何もしないのと同じことではないだろうか
言えば・・なおさら生きてる間にむしり取られることになる
死出(しで)の旅は一人旅である
私はまだ生きている
その晩、夢で見た話である



no.12経験

阿弥陀如来

(写真註:阿弥陀如来(醍醐寺))


もう20数年も前のことだが、私の家族は若き長男を失った
突然のことで何の用意も知識もないまま葬儀に臨んだ
私の会社や友人の参列者も多かった
が、はるかに息子の友人らの多さに驚いた
通夜式が終わっても続々駆けつけてくるし、通夜式が終わっても帰らないのだ
こんなに大勢なのは芸能人のようだという人がいた
ところが違うのだ、服装が普段着なのだ
中にも勤め先の作業服のままや、アカやミドリの髪色の人も混じっていた
はたちを超えたばかりの息子であったが、大人の付き合いがもうキッチリ始まっていた
実は知らなかった、若くして友人の多さは誇れること、急にそう思った

いくつものテーブルで友人たちの通夜が始まった
通夜の客は帰らないのに、困ったことに会館の人は帰ってしまった
家族と一緒に明け方まで私たちの知らない何人もの人が起きていた
食い物も飲み物にも手も付けないのだ
自分らのやる葬式はそれで十分だということかもしれない


その彼ら彼女らの多くが翌日の告別式に来る人は限られていた
私たちに付き合いの人にほぼ置き換わった
息子の友人たちには昼間は仕事や学校もあるし、またキッチリ喪服を持っているという世代ではない
葬式の経験は明らかに少ない・・・、
こんな大きな会館では自分らが場違いになるというふうに思ったのかもしれない
葬式は家族や親族のものである、・・・会館の葬儀の進行は何処へ行っても同じだ
今までやっと一緒に生きてきた若き友人の死にしてはあまりにも通り一遍で冷たすぎる
そんなことをすでに感じていたのかもしれない



息子の友人たちは突然何か分からないまま、悟ったのだろう
死という事実によって一瞬にして全てが始まって、・・終わったのだろう
儀式の虚しさを先に本能的に悟ったのだ
死というものが自分の隣にいるかもしれない
無常、無常感、若い人ほど敏感かもしれない

少し違った話をする
今までに地球上に存在して死亡した人の死亡年齢の平均は30歳だという説がある
一方、平均余命80歳うんぬんというのは今現実に生きている人のことである
今日この時点を境にしても死んだ人の平均と生きている人の平均とに3倍の違いがある
それが、今生きている人が一番理解できないことでもある
死というものは若い人ほど近いところにあるというのが歴史なのだ
友の死にあるいは初めて出会う人の死に感じたものこそ、
人間が持っている遺伝子的な無常感かもしれない
が、生き残ることによって薄れていくのも当然なことかもしれない

医学の進歩は寿命に貢献したのは明らかだろう
だが人の死は特に青年の死因は断トツで戦いによる死なのだ
人類の歴史は文明発祥の時代からあくなき戦いなのである
歴史的過去の多くは若くしてなお悔しく無残な戦士の死と
戦いの犠牲になった人の死だったのだ
弔う(とむらう)というのはまずは死者の霊を慰めることであった
霊とは本来の寿命を全うできなかった魂のことである
自分たちのために犠牲になってくれた人の死を弔うための儀式が葬式なのだ



例えば政治家を見てみるがいい
勝ち残ったものだけが政治家なのだ
我々だって、同じことなのだ
ここまで生きられたことが既に幸運であった
現世の世間は生き残った人たちの合議で作られてきた
その点では葬式も結婚式が華美になったのと同じ道のりをたどってきた
今の葬儀の流れは幸運な人の必要に応じて発展してきたもの

弔いの主役は亡くなったその人だということは誰もが分かってはいる
だが、結婚式と違うところは自分で演出が出来ないことと
自分の葬式は誰でも一度だけだが、最後しか回ってこない
自分の死のその先の生き方?を考えるのが忙しくて蘇ってきて指図することも叶わない
長寿が進んで人によっては70歳を過ぎて初めて親の葬式で喪主を務めたりする
この葬式のレールというブログで親の葬式は自分の葬式だと思えというのはそのこともある
送られる親も老人なら喪主も老人なのである
しかも、どちらも初めてのことだったりする


親の葬式は年齢から言えば自分の人生と人格の仕上げである
そんなこと言ったって、間に合わない人も多い?
1時間の試験に例えればあと5分になって何をするか
新しい問題に取り組んでいる間はない
最後にせめて名前の記入を忘れていないか、も一度確認せよ
学校ではそう教えられてきた・・ことを思い出している



no.13地獄への道

阿弥陀如来

(写真註:阿弥陀如来(嵯峨釈迦堂))


そもそも、家族こそが一番故人のことを知っていないこともある
5年も10年も病気してたら、おかしくなって家族に迷惑かけたことだけしか思い出せない
とても、皆が言うほど厳しかった人とはとても思えない・・なんてことになる
サラリーマンだって金貸しだって仕事の成果は評価されるが仕事の癖は正しく評価されることはない
葬式は誰のためにあるのかと言えば、残された者のためにあった時代もある
喪主の社会的地位が葬儀を作る
自分の親がどんな親だったのか説明できないこともあった

テレビドラマのように単純でない、しかしドラマほど複雑でもない
例えば、ただの女好きだったと言われるほど単純な生き方をした人は存在しない
家族葬ではもはやそれも必要ない、親は単に親である、子は単に子である
家族が集まって遺品整理の話ばかりしておけばいい
それは世の常、家族葬の寂しさでもある


人の人生は毀誉褒貶(きよほうへん)である
世の中ちゅうものは生きてる人間がみんな集まって都合よいように作ったものである
世間は右と左、上と下、白と黒、・・本物と偽物、正と邪、・・
反対と思えば似たものばかりで自分と他人の区別も分からない
世間のことを世間が裁くのが浮世たるゆえんである
しかし地獄は現世の資産や地位を認めてくれない上に極端に公平な世界だ
閻魔だけが評価する?誰もが通らなければならないのが地獄の門である

現世浮世の嘘は通じない
地獄でこそ始めて裁かれ、また地獄で始めて救われる人もいるだろう
そのことを知って生きている者こそ英雄である

死後のことは天に任せばいいし、自分の身は閻魔に任せるしかない
閻魔に裁かれても心配するな、地獄の責め苦はない
それが火葬だと信じるのがいい、もう既に身は焼かれている



no.14中陰

阿弥陀如来

(写真註:阿弥陀如来(平等院・定朝作))


人は死して、七日ごとに七度、裁かれ生まれ変わると言われる
忌明けは死後50日目(四十九日)とされてきた
この間を仏教語は「中陰(ちゅういん)」という
死者が、今生(こんじょう)と後生(ごしょう)の中間にいて輪廻(りんね)している期間、という考え方であろう
まさに、七日ごとの法要も・・死者と仏と残されたものが一緒にいると思えばいい
阿弥陀如来の本願によって臨終とともに極楽に往生するというのは浄土真宗の教えである

天国と地獄の「天国」という言葉は異教の言葉だ、仏教徒には面白い言葉だ
あるとすれば天界の国という意味だと解釈している
仏教では浄土という、その一つが極楽である
その対語にあるのが地獄である
一般人の地獄の概念は地面の下にある暗黒の世界である
なんぼ、地面に埋葬すると言っても暗黒の世界でない方がいい
だが、人の世である限り他人に罪為す人はたくさんいる
極端に言えば、人の世は自分が生きていることが罪の始まりである
生きているときは言い訳が出来ることも死して後は仏が裁く
地獄の世界は金もベンチャラも嘘も言い訳もない世界である
現世の権力も、裁判の判例だって、賞罰だって通用しない
そんなことをしっかり悟ってほしい人も必ずいる


死者の罪を贖うのがこの期間である
四十九日が終わって仏になる、までが一連の葬儀である
この考え方はほぼ定着している
縁者がいないときや少なければ法要は省略されることもある
そのことで不利益はないのが地獄だと思う
法要の勤め方は長老か葬儀屋でも教えてくれる
ただ、月の後半に亡くなると必ずと言っていいほど"三月跨ぎ”など意味なき風習も紛れ込んでくる
そのことはあらかじめ知っていた方がいい
日本の仏教は明治時代の初めに一度滅んでいる
俗な世界を浄化するシステムとしての仕掛けの底が見えてきている
葬式の一連の行事には宗教教義と土地の風習と迷信などが一緒になってしまっている


天台の学僧源信(1017没)が経典の中から地獄・極楽の在り様を表した「往生要集」を書いた
そこから地獄のイメージは発展し変化を遂げている
罪多き人間は極楽への道として地獄を通らなければならない
地獄の裁きは峻厳だ、閻魔大王という鬼は人間の今生の嘘を見抜いて許さない
一番許されないのが"善を繕うウソ”なのだ
そんな信仰がないと金や権力に飽かせて大きな名前と大きな墓を建ててしまう
名もなく正しく美しく・・そんなこと現世の俗人・凡人に叶うはずがない
が、死後の世界は仏の前で皆が裸にされると思うことによって救われるのだ
そのまま死んでもいずれ許してやろう・・と言ってくれてると思えばいい


その内に自分も行くのだ、今さらくよくよしても始まらない



no.15葬れん

歯吹き阿弥陀如来

(写真註:歯吹き阿弥陀如来(万福寺))


ブログに「葬式の話」を毎日書くのは確かに異常かもしれない
サラリーマン時代の友人とそんな話になった
我々には自分の生き方(終活)の知恵の一つ、そういう効用もあることはある
私も人の話を聞く

5年ほど前に彼の奥さん、ご自分の母親の骨あげ(収骨)のときに体が動かなくなった、という
気丈でどんなことにも耐えてきたその奥さんがである
肉親の親が焼かれて熱い灰になった
眼耳鼻舌身意・・六感の全てがそこに集中する初めての経験だったのかもしれない
肉体が道端に投げ捨てられていたり、
屍が薪を積み上げて荼毘にふされたり、
今はそんなことはないにしても・・そんな場に居合わせたとしたら誰しも同じことである
大昔から都市は、亡くなった人を手厚く葬ることの他に
屍を衛生的に処理する必要と義務を負ってきた
明治になってから焼き場が建設された
その火葬場も今は、煙の色や匂いを経験することは少なくなっている
火葬場というのは近代焼却炉装置を備えている
おかげで儀式から自然に流れてきて、数時間で灰になってしまう

その時に初めて気づくこともあるのかもしれない
知ることや思うことや諦めることや・・親子の絆などなど
彼には何人も兄がいてオジキがいて、父や母が亡くなった時はただ神妙にしておればよかった
一周忌や年忌に国に帰れば片のつく話だった
奥さんは葬式とか法事というものはそう言うものだと理解していた
のだと私も思う
彼は言う、今まで見たり思ってたことは表面ばっかりだったのではないか、と



数十年前までは土葬だったところも多い
私は子供の頃、祖父の棺桶を運ぶ葬送の列をうろ覚えに覚えている
村の人が皆出てきてお祭りのように賑やかなものだった
葬式は葬れん(れんの字が表記されない)とも言う
当時、臨終から葬送・埋葬一連の行事が葬れんだった
埋葬前に僧侶のお経に皆が合掌した
実はこの部分が儀式化されたのが告別式である
告別式という言葉は葬儀場で実施する必要から発展してきた

だから葬儀社では「葬儀並びに告別式」と区別を意識して表現する場合もある
葬儀は「家族のもの」、告別式は「皆のもの」と便宜的に区別している
その区別すらなくなりつつある

家族葬は「皆のもの」が省略されて、「家族のもの」という意味である
その家族のものを突き詰めていって通夜も葬儀も省略していくといわゆる直葬(じきそう)になる
そうなれば家族すらいない場合もあり得る
火葬許可書をもった人が火葬場に行けば受け付けてくれる
依頼すれば火葬場で僧侶の資格を持った人がお経(引導)をくれる
だから、「火葬式」と葬儀屋は言う
それが人によっては葬れん(そうれん)の全てになる

究極、葬式とは火葬のことなのである
火葬だけが人の死の儀式だとすると我々は一体何の儀式に参列しているのだろうか
今、多くの人がそのことを考えようとしている



no.16焼却炉

阿弥陀如来

(写真註:阿弥陀如来(元興寺))


式場から霊柩車で火葬場に炉の前に運ばれる
足元から耐火シャッターのうちに入れられ扉が閉じられる
化粧扉が閉じられ、職員が恭しく宣告する
合掌して・・
それが点火の合図になる
喪主が点火のボタンを押す演出がある
足元先端部のバーナーの火が最初に柩(ひつぎ)に回ってくる

ロストル式焼却炉は火床(ロストル)の下に受け皿煉瓦がある
骨(灰)は受け皿に落ちる
少し冷却の時間をおいて受け皿煉瓦を引き出す
頭蓋骨と腕や脚の骨の形が残っている
磁石で金属を除去して参列者が骨壺に収骨する・・
この間、90分くらいである
ロストルというのは火がよく燃えるように炉やストーブの下部に設けた鉄製の火格子のこと
柩(ひつぎ)はこの格子の上に乗るので下からも炎が回る理屈である

実はこの方式は全国では少なく、京都市ではこの方式を採用している
ほぼ全国の焼却炉は台車式というもので骨受皿の上に直接棺を載せて炉に入れる
柩の下から火が回ることはないので少し時間はかかるが遺骨がキレイという

昔インドで荼毘にふされた釈迦の遺骨をカメに入れて供養した
後、骨を分けて各国に配った、これを仏舎利という
我が国の火葬は遺骨を大事にする仏教の風習に基づいているという

火葬は仏になる最初にして最大のステップである
生まれて初めて魂は肉体を離れて気化する
我々が炉の形式を選べないが、そんなことは気にする必要はない
新しい焼却炉であればどちらの炉の形体であっても1時間半くらいである
いずれにしても仕上がりを見ることができる
そのための職員の焼却技術は生半可なものではない・・・ということだ

遺骨は喪主と参列者によって収骨される
遺骨の所有権は斎祀継承者(多くの場合これを喪主という)に帰属する
火葬場から言うと
遺骨の全てを引き渡す火葬場は関東地方に多く、全部収骨という
部分引き渡しは関西地方に多い、部分収骨という
"葬式のレール"から言えば
いずれにしろ遺骨は申請者(喪主)が引き取らなくてはならない

・・のは当然の流れではあるが、
ここまで来て、引き取り手のない不幸な遺骨も多く存在する
死して後も市役所のお世話になるということになる



no.17棺の値段

阿弥陀如来

(写真註:阿弥陀如来(百毫寺))


葬儀の費用はどこまで節約できるのだろうか
役所の死亡届や火葬許可書の申請には費用は要らない
だが、火葬場の利用には費用がいる
市民以外の利用は差がつけられているので注意がいる
しかし、その人がどれほど欲深い人生を送ってきたか
どれほど人のために尽くしてきたか何も問われない
今どれほどの資産を持っているかも関係ない、もちろん費用は同じだ
これほど公平な世界はないともいえる

遺体搬送の業務に関しては法律で定められている
基本的には寝台車や霊柩車などの特殊用途自動車を使かわなければならない
遺体は物(貨物)であるだから、救急車もタクシーも遺体は運べない
ただ、業務ではなくあなたが親の遺体を自家用車で火葬場に持って行くことは可能である
ただ、柩を乗せられる車でなければならない
何故ならば、火葬場は棺(ひつぎ)に入っていない遺体を引き受けることはないからだ

とすると、死後の安置、火葬場への搬送に葬儀社を使わなければならない
その時にどうしても必要なのが棺(ひつぎ)だ
棺は柩(ひつぎ)とも書く
余談ながら・・・一説によれば棺は物であり、柩は遺体が入った物と言う
遺体付きで売っているものはないので物としては棺の方が使い勝手がいい

話を戻すと、昔は座棺(ざかん)だったので、木製の棺桶(かんおけ)だった
今でも棺桶と呼ばれるが、焼却炉の都合で皆さんが見ている寝棺(ねかん)である
普通の葬式で棺の種類や値段にこだわる人は少ない
概ね葬儀や祭壇のレベルに合わせて葬儀社で用意してくれる
合板に飾り布を貼ったものが一般的に使われる
蓋つきで、顔のところに窓がついている
軽くて、燃えやすいというのが条件だ
ほぼ2万円から〜10万円である
我が国で利用される棺の9割は中国製である
それで困ることはない

WEBサイトで見つけた彫刻付きのヒノキの棺は100万円と言うのもあった
葬儀社を経ず直接に注文することも可能であるが・・よほどのことでないと意味がない
小さな葬儀が流行り出してくると実は棺の値段は大きなウエイトを占めてくる
なんぼ小さくしても安置・搬送・棺一式は葬儀社に頼まざるを得ないからだ
もちろん、それに関わる人件費と間接経費が加わる
葬儀社は究極のサービス業だと思っている
棺桶の差額で儲けるより、いい企画を立ててくれることの方が嬉しい



no.18骨壺

阿弥陀如来

(写真註:阿弥陀如来(化野念仏寺))


骨壺は色や形も大きさも様々あるが、目的は明らかである
収骨には習慣の差がある
部分収骨とは火葬場の骨上げの際、のどぼとけや歯骨などの一部の骨だけを拾って収骨することを言う
従って小さめの骨壺(9〜15センチ)で足りることになる
もちろん残った灰(残骨灰)は火葬場でにおいて措置(処分と供養)されることになる
西日本は概ねこの部分収骨のかたちである
ということは、中部地方から関東・東北地方は全部収骨が習慣である
遺灰の全てを骨壺に詰めることになる
焼却場に残すことが出来ない
骨壺が大きくなるわけである
それはあくまでも習慣というものである、遺骨信仰に変わりはない
ただ、習慣の違いを知っておかねばカルチャーショックを受けることはある

骨壺の値段を調べてみた
葬儀一切の見積もりの中にあるので骨壺だけを買うことは余りない
最低2〜3000円から10万円くらいまで色々あるようだ
有名な焼き物なら15万円ぐらいはするが、そんなことはもちろん我々には関係ない
磁器の1万円ぐらいの骨壺をよく見るような気がする

今は手元に置いたまま暮らす人もいるようだ
少しお金をかけたいと思う人もいるだろう
そう思えば様々なデザインがあるのも納得できる
屍(や焼却前の遺骨)は自分で持っているわけにはいかない
遺骨は遺灰だからそう言うことができる
法律によれば埋葬は必ず墓地でなければならないが、
遺骨は必ず埋葬しなければならないことはない
ずっと持っていても、あるいは宗教的行為としての散骨も違法ではない

骨壺のままの遺骨をそのまま抱かまえているのは世間体がある
それなり、それ用の骨壺にすれば少し高くつく
さらにそれを装飾すると相当高くつく
更にはペンダント風にすることも商売として成り立つ訳である
それを好みとする人には救いになるかもしれない

ただ・・年月を経て行方不明になるようなことになればはかないことになる
遺骨は永遠ではない、やがて分解されて土に帰るのが自然である
遺骨を抱えてるあなたより遺骨の方が寿命が長いこともある

それでなくとも・・遺骨(遺灰)より骨壺の寿命の方が長いのである



no.19墓との距離

阿弥陀如来

(鉛筆写仏 註:阿弥陀如来(百毫寺)


田舎にある先祖の墓を何とか自分の近くに持って来たい
ところが墓を移転(※改葬)するということは結構大変なことである
親がいて正月や盆あるいは彼岸に帰省するところがあればありがたい
しかし、自分が田舎を捨てて親もいないとなれば田舎へ帰るのは墓参りと言えど辛いことである
先祖の墓と自宅との距離が問題になる
それゆえか無縁仏が増えている、墓参りしなくとも墓の所有者がはっきりしていれば無縁仏ではない
墓地の運営者が正式に無縁仏とするには改葬の公告をしなければならない
それも手間のかかることである

国の調査では出生地に住み続けてるいる人の割合は2割以下に減少している
もうこれ以上に下がらないかもしれないが、その大きな原因が都市移住と人口減少である
その残りの7割・8割の人の中で新しい墓を持つことがここ数十年続いてきた
墓地を分譲(土地は所有しない)する形の霊園が今までの主流であった
今でも条件のいい霊園墓地の競争率は高い
けど、一方でそこでも無縁仏が増えている
評論家は都市移住の問題より今は未婚化の方が影響しているという
人間、子が出来て孫が出来てはじめて先祖のことに思いが至る訳である
でも残念ながらその子にも墓参りする姿を見せていない

生きてるうちに自分の墓を作ったって同じである
そんな墓に参るのを子供に見せても感動はないだろう

人間の終わりは骨(灰)である
だが、生きていた証(あかし)の名前が欲しい
石の墓は日本列島の3000年前に始った記念碑信仰なのである


田舎へ行って菩提寺にええかっこして墓地の改葬をしたい、と言ったら何百万も要求されることもある
何百年の清算と縁切り料である
そうでないと墓地管理者としての改葬の承認状を発行してくれない
改葬は法律に基づく手続きであるからだ
それならどうすればいいか?新しく自分の墓を作るのが手だろう
それは永久に改葬の必要のないところに・・
樹木葬については以前に何度か書いた参考にされたし

先祖の墓も守(もり)しないで自分の墓を持つのは・・
先祖や親に大不孝だと思う人はやめたがいい
納得ができなければいくら作っても記念碑にならない
だから、今あなたの心の隙間を埋めるように多くの自治体やお寺が合同葬を進めている
都市で子供のない人や未婚の人たちをターゲットにした営業戦略に変更をしている
自分の墓を守(もり)してくれるのは自分の子供達だという一番大きな信念が崩れつつある
そのことを知って選ぶべきである
ご先祖なのである
残念ながら、”楽しく苦しく精一杯美しく生きた”あなたではない

どうせ知らないなら・・会いに来てもらえる墓を選ぶべきであると思うのだが・・
これからは結婚しない人にも優しい墓でないと流行らないと思う
いずれ魂は気化して、残るのは土と水だ
所詮都会の人は都会が墓場だ



no.20入院

見返り阿弥陀如来

(写真註:見返り阿弥陀如来)


人は病気になって始めて自分が生きていることを知るという
成長の峠を超えれば進むたびに下っていくのが生きることだろう
年をとるということは嬉しいことではない
年取れば病気になるということも受け入れざるを得ない
ガンが来るか痴呆が来るかあるいは道端で倒れるかもしれない
大きな手術に家族の同意が必要という医師がいる
本当は患者本人の意志なのだ
・・がいつかそうなったともいう
人の最期に家族の同意が必要だというのはおかしい
それが血だと言うが、そんな時だけのでは水臭い

自分で決められなくなるのも老人の宿命だろう
仕方がないと思えば、悲しいこことではないのかもしれない
しかし、悔しいことだろうと思う

他人事だと思ってはいけない
幸せな夫婦だって夫婦である限り最後は一人になる
遺産がなければ子も孫もいないも同じ
一人で暮らすことは月並みな幸せなのだ
そもそも老人になるまで一人で暮らしてきた人もいる
人は元々一人者なのだ
地域の民生委員や老人福祉員はあなたは知っているのだろうか
地域包括事務所は悲しいかな民営である
年金も健康保険もあるし、元気な時は医者にも通えるが・・
下手をすると入院は出来ない
せめて病院で死にたいと思ったがそれが出来ないという人が一気に増えている
一人者は保証人になってくれる人がいないのだ
世間には確かにそんな商売があることはある

人間最後の幸せは地蔵菩薩のようないい医師に当たることだという
生き死にを金で買うことが出来ると思う人にはわからない
これからの世にそんな出来た医者は少ない
医者は技術屋になってしまった
探してはいるが・・
私は間に合わないかもしれない
地蔵菩薩のようなと言われればこの世で出会えるかどうか分からない
地獄へ行って地蔵菩薩を見失わないことの方が大事なことだ



no.21看取り

阿弥陀如来

(鉛筆写仏 註:阿弥陀如来(京都国立博物館所蔵)


カタカナ語も知らねばならない
一つは「ターミナルケア」、二つ目は「リビングウィル」
どちらもカタカナ語ゆえに聞きなれない人が多いと思う
日本語で言えないこともないが正確な日本語に置き換えられない状況がこの問題の性格だ
私はあなたがどこでどんな死を迎えるか知らない
もちろん私も同じである
自分でもわからない以上、覚悟のしようもないというのが本音である
夫婦なら配偶者の直接かかわることとなる
子であれば祖父母や両親の死を経験することになる
仮に死んだ人に聞いたとしたら、ほとんどの人が死は無念だというだろう
その無念のほとんどは死に方にあると思う
最後まで堂々と生きるためにはむしろ死にあたっての知識と細心の注意深さを忘れてはならない


・・ 覚悟はしてたつもりだが、仮にコロナに感染したら・・、上手く入院できても面会もさせてもらえない
入院も出来ぬまま高齢者施設で肉親にも会えずまま亡くなった人も多い
晴天の霹靂(へきれき)とはコロナのことである、こんなことまで想定して覚悟していた人は少ない
人に無常を説いていた高僧もコロナでは死にたくないと閉じこもっている
ましてや覚悟するにはまだまだ間があると思っていた若い人だったらなおさらだ
楽観バイアスに陥って開き直ってるのかもしれない
医療崩壊とは本当のことだった
医療も受けられずに、家族の看取りもない、何も言えないママ死んでいくというのは悲惨だし、極めて残酷である
無念でない筈はない
今回のテーマである終末期医療の理念だとか看護や介護や人間科学の入る余地がない
そんなことも起こり得る
死に直面した状態で医師も本人の意思など確認しようも無くなる
死に対して医者と話し合う、あるいは家族と話し合うというのは極めて適格なタイミングでなければならない
そこまで考えて準備すべきだと言われても、そこまで覚悟出来る人はいない


・・・
ターミナルケアとは、余命わずかになって苦痛を緩和しながら出来るだけ質を保った医療や看護を受けることである
精神的平穏や延命を諦めるときにスタートする
本人の意志によって決断できる場合もあるが、タイミングを外すと家族が決断しなければならなくなる
恐らく最初の段階は、患者が自分で食事ができなくなった時に、鼻から管を入れる
あるいは胃ろうと言って、手術によって胃に直接管を通して栄養を補給せざるを得ない状態時に直面する
病院は診療行為を行わない入院は基本的に出来ないことになっている
だから、在宅でケアを行うこともある、施設でのケアもある
あるいは癌患者のホスピスもこれらの概念に含まれると思う
何よりも家族が納得できるには、本人の意思がはっきり理解できることが必要なのだ
どこまで行っても家族の役割は大きいが、病院は必ずしも家族の期待に応えられるものとは限らない
し、病院から見れば家族も必ずしも医師の説明を理解できるとは限らない


・・・・
以前、私の母のことを少し書いたことがある
片足が腐って切断の手術を受けた
その時一度母は死を覚悟したらしい
その後2年間生きた、最後の1年間は鼻から栄養を入れながら寝たきりだった
無言の行を行ってるかのようにもはや何も言わなかった
私と母は姓が違う、母は50才を過ぎて離婚することになった
40数年後にあった母は病院にいた
それまでは母は私の連絡先も何も知らなかった
病院の努力だった
看取りという言葉は美しい
が、家族に看取られてという美しい状況になるとは限らない
定義としての「看取り」は「無理な延命治療などをおこ行わず、高齢者が自然に亡くなるまでの過程を見守ること」を言う
死の瞬間、死に目に立ち会うことと別の言葉である
自宅で最期を迎えたいという希望する人は相当多い
が、終末期を在宅で言うことは難しいし、事情が許さないことが多い
看取りの一番大事なことは、その人の人生の最期といかに大事に大切にするかということにある
700キロも離れた病院にいる母の死の瞬間に立ち会うことも出来なかった
葬儀は私がしたし、遺骨は私が持って帰った
“骨だけは拾ってってやる”という約束は守っている
長期に渡ってケアしてくれた病院の存在に本人にも家族にも救いだった
それが看取りなのだろう
おかげで・・何よりも・・死はゆっくりと平穏にやってきた
本人の意思を尊重しながらも親の死に当たって責任を取るのは私の役割だった
決めておかねばならない、あるいは即時に判断しなければならないのが「延命治療」である
安楽死という言葉もあるが、日本の法体系では許されていない
もちろんそれではない。無理無用の延命だけを目的とする医療のことである
それを自ら拒む意志のことである
自分の意思で延命治療を拒み、それなりの死を迎えようという考え方のことである
「平穏死」という結果、が得られたのは救いだった



・・・・・
「もしものとき」のことでもある。その時に何を望み何を望まないかだ
生命を維持するための装置は色々ある
人工呼吸器、人工栄養補給、腎臓透析や輸血、抗生物質の投与などなどの医療行為がある
これらは救命措置に用いられる
同じようなものを同じように用いても、ただ単に死期を延ばすためだけに用いれば延命措置になる
延命と言う限りは現代の医療レベルにおいても不治の状況であり、既に市が迫っている状態に限られる
意識があれば痛みは緩和してほしいが、回復可能な植物状態をまで望む患者はいない
難しいところがあるとすれば、いつその生命維持装置を取りやめるかを決断することだ
せめて、患者本人の意思が明確に示されていることは大きな救いになる
しかるべく状態をあらかじめ知ったうえで、本人の意思が事前に明確にしかも文書で表明されたもののみが実効性がある
それがリビング・ウィルといわれるものである


・・・・・・
これは医師(病院)との契約なのである
日常的に何を語っていてもまた日記に書いていてもそれでは役に立たない
あくまでもそれは覚悟の問題である
人間の覚悟と言うものは時により極めてあてにならないのが普通である
医師は患者の最新の意思を知りたいし、なお言えば最終の意志を知らねばならないのである
回復の希望がるならそのことを患者に知らせなくてはならないし、あらゆる医療措置を行わなければならない義務を負っている
生死の分岐点ははっきりりしているが、何度も何度もやって分岐点がやってくればどこからどこに向かってるのか分からないことが多い


・・・・・・・
それらは医師や看護師から十分な説明を受けなければわからないものである
一言で言えば一言で言えるほどに簡単なものではない
一つは回復不可能という診断は主治医の診断による
一つは患者本人の経験・病気の歴史や医学的認知
もう一つは家族における状況の判断力
敢えて言えば、家族は本人の意思を誤解していることもあるし、家族一人一人は立場が微妙に違う・・こともある
ましてや、患者本人の代理ができない場合もある
名医といわれる人は患者本人の意思疎通を優先して最後まで患者本人の意思を尊重するという
それが医師の責任であることは明白であっても患者本人の意思を確認することも間に合わない場合も多い
延命措置の是非も問題はそこにも鍵がある


・・・・・・・・
リビング・ウィルは「終末期医療における事前指示書」と言われる
患者が医者に”指示”しているのだ
似た物に遺言があるが、遺言書に書いても役に立たない
遺言は死後にしか有効にならない
だから”生前の”という言葉を付け加えるのが分かりやすい
「尊厳死宣言書」などと言ったりする
家族がいる場合は家族の署名が必要だったりする
ここが手続きとして煩雑でもある
署名は代表者でいいが、肉親でも然るべき人でなければ後々問題になる
回復の見込みがないということは医者にしか分からない
患者も家族も状況の理解は皆違うだろう
患者本人の認識と、家族には家族の個別な感情や思惑があるのが普通なのである
家族の理解は皆違うのである
生きていくには勇気がいった、が人に助けてもらうことができた
死ぬ時はもっと勇気がいるが、家族は今更助けてくれない

その時の医者の役割は極めて大きい
ただ、どう死なせてやろうかと考えられない医者には、 どう生き永らえて、どう生活させてやろうかということが分からないものだ
それを分かる人を名医と言うのだろう・・・ね
葬式のレールは医者が引いて
たどり着いた駅の改札で坊主が切符を回収する
それでも自分の駅で降りなければならない


・・・・・・・・・
老いて自分の家で暮らせることは仕合せなことだ
健康も程々だし、経済も程々だったということだろう
家族の絆とは別のものだ
夫婦の縁も腐ってしまった
子や孫は死んでからのことしか考えていない・・としてもだ
世の中に何も残せない人が99%なのだ
そこまで来れば、自分の死のありかたを決めなければならない
しかし、所詮同じだろうという人もいる
死に方を決められない
生き方も決められない
それどころか病院も決められない
葬儀場も決められない
葬儀の形も決められない
葬儀にきてくれる人を決めておくわけにはいかない
葬儀の費用の分担から始まって、マンションの処分まで一気に話が進んで大いにもめることだろう
それが決まらないと遺骨の引き取り手も決まらない
そんな葬儀はいくらでもある
私の場合は・・・どうせもめるなら、・・
現世との境目をさまよっている四十九日までしっかりもめてくれ
初めて家族の本心を知ることができる
人生は努力しても思った通りにはいかなかった
人生の最期や死後のことが思った通りいくことは絶対にない

それを後の祭りというのだ
自分の思った通りは改めて家族の期待外れを生み出す
死して後まで番を張ることは出来ない
と、のみ知るべきである
そこまで書いてきて私の葬式のレールは終わる
完結するのではない、『葬式のレール(1)「火葬」』に戻ってほしい
人の死は火葬で終わる、というのがテーマであることを分かってもらえる



京都写楽苦会チーム新切京都写楽苦会(文芸部代表代表大石寛道)(C)2019 singireaji
4.5.21